座間市9遺体事件に関連して、精神科医の松本俊彦さんというかたがご意見をされているサイトをみた。

 

 

「座間市9遺体事件:もしSNSで「死にたい」を見つけたら…精神科医が語る、みんなにできること」(BuzzFeed News)

 

 
そのそのご意見はしごくまっとうだと思われたのだが
そのごもっともな提言よりその下にリプライとして入っているコメントの方が
自分にはストンとおちた。それは
 

「この国では自殺や自殺願望、死にたいほど追い詰められている人に対する人権は無い。弱い人間、構ってちゃん、迷惑な奴、とかで片付けられる。世間の認識が変わらない限り、悲劇は繰り返される。」(Chiharu Naさんのコメントをそのまま引用)

 

そう、弱者には人権がない。それをこの方は「この国」と日本限定でかたづけている。だが何も日本だけの話ではない。

 

現代社会は競争の社会。競争に勝ち残った人間が世間の甘美な果実を口にすることが出来る。一度でも競争から落伍した人間、病を得た者、競争のスタートラインにもたてない人間、は、社会や勝者の足を引っぱる足手まといでしかない。しかしそれでいいのか。

 

勝者の割合はごく僅か。地球全体からすると0.01%にも満たないだろう。あとは競争に負けた者だ。その弱者を搾取して全体社会に組み込んで勝者の意のままに操るなどして、それで人類の存続はできるのか。地球を維持することは可能なのか。

 

人が死にたいと思うなどのは、自分が必要とされていない人間だと強く思い込む時だ。「私が死んでしまっても何も変わらない。誰も悲しまない。」だから無に帰したいのだ。誰かが自分を必要としていると自覚しているときは人は決して死ぬを選ばない。誰かの役に立つ、それが生きる原動力なのだ。

 

死にたいと語るその人一人一人が、誰の代わりも出来ないほどの命の輝きだ。今死にたいとうめいている本人すら気がついていないその人本来の「生きる意義」が必ずある。それを弱者だの、かまってちゃんだの、落伍者だのと、切り捨てるのか。

 

自分は「死にたい」と思って居る人々に「命を粗末にするな」とか、恩着せがましいことを言いたいのではない。むしろ私自身もどうかするとそちらがわへいってもおかしくない弱い人間だ。弱い人間だからこそ、闇に吸い込まれる前になんらかの横道の手立てがないか、弱いままでもなんとか崖っぷちで回れ右する勇気を取り戻せないか引きちぎられる思いがする。SOSを出している呟きを弱いという一言で一刀両断切り捨てないで欲しいと思っている。