上がったり下がったり、ある意味躁鬱のレベルまで気分の振れ幅が大きいのは僕自身今に始まったことではないのだけれど、例えばそれが誰かに対する関係性に於いても同じようにそれに左右されるかといえば、そこはなんとか保っている、というのがたぶん僕の僕たる所以で。そして、それが苦しみの源泉でもあるのだけれど、でもまぁ、それは引き受けるしかない僕の性質、なのだろう。
でも、もちろん人は、僕と同じでは、ない。
近頃の僕は、もはや誰かを「理解する」ということはそもそも放棄した方が得策で「理解できないのが当たり前」と考えるようになりつつあるから、みんなそれぞれがそれぞれの人生を抱えていて、その人が僕に見せている姿は、どこまでいってもその人のうちの一部でしかなくて、だからこそそのことを自覚した上で、それでもその人と関わっていくのだという覚悟を持って、生きていくしかない訳なのだけれど。
それはある意味「余計なお世話」で、でも、たぶんその余計なお世話がどこかでその人の支えになっていたりすることを、ただただ、僕は祈る。祈りながら、遠くで、あるいは近くで、自分の人生を、生きる。そうやっているうちに、またどこかで二人の道が一瞬交錯することになるかも知れないし、そのまま一生擦れ違い続けるかも知れないし。
それはそれでいいのだと思う。
「元気ですか」とたまに僕が問いかけるのはたぶんそれくらいの意味で、本当は別に応えを求めているわけではなかったり、するんだろうね。
波長がシンクロするタイミングでしか、コミュニケーションが取れない。
でも、逆に、そういうふたりだからこそ、コミュニケーションが取れるタイミングでは、ずいぶんとシックリくる。
・・・それがそういう人達との関係性の中で起こっていることの実態、かな。
最近はそんな風に理解するようになっています。(・・・そういう意味では、結局は自分の「理解できるカタチ」で物事を理解しようとし続けているのだけれど。でもまぁそれは、自覚しているから、良いことにしよう。)
例えば<凛>。もう半年くらい、話していないもんね。でもそれは、今はそういうタイミングなんだと、思っていれば良くて。
例えば<純奈>。彼女は多分、自分の中で納得が出来る自分になるまで、「連絡できないでいる」んだと思っているのだけれど、それはそれほど外れてはいないハズ。
たぶん彼女たちとは、また、どこかでいつか会うことになる。
そしておそらく、<菜月>や<彩>とは、もはやこの先ずっと交錯することは無いような予感もするし。でも、別に僕は閉じているわけでは、なくて。
そうしたことを自覚した上で、<ユリア>と繋がっていようとする僕は、この先いったいどんな旅を、することになるのだろうか。もしかしたら、これがまたひとつの、新たな次元での僕の挑戦、ということになるのかも知れないね。
・・・思えばずいぶんと遠くまで、来たものだ。でも、そう考えると、ここ数年で、やはり僕は、それなりに深みを増しているのかも、知れないよ。
もちろんこれも、螺旋階段・・・・。