それはそうと、このように、われわれにとって、生きるために何らかの目的を設定するということはごくごく日常的なものだと言えるだろう。
それにしても、僕らはなんでこんなにも何かを成し遂げなければならないと焦っている、もしくは、焦らされているのだろう?

しかし、しかしである。
目的が達成されなければ肯定され得ない人生というのにはかなり問題があるのではないだろうか?

例えば、(クラブ活動などで)スポーツをやっていた人は当時のことを思い出してみよう。きっと、試合に勝つという目的のため、現在を犠牲にしてつらいトレーニングに耐えたことだろう。厳しい監督がいたチームなら、「結果がすべてなのだ」「試合に負けたらすべて無意味なのだ」とたたき込まれたかも知れない。
だが、挫折したらすべて無意味であるとしてしまうのはあまりにもミもフタもなさすぎないか?あるいは逆に、目的さえ達成されればそれですべては「オールオッケー」なのか?

生きるために何らかの目的を設定する、その目的のために生きる、その目的がなければ生きられないということは、きっと、おそらく、病んでいる。目的が達成されなければ人生を肯定できないとするなら、われわれは人生を肯定できていないのと同じだろう。生きているということは、それ自体で、端的に肯定されなければならないはずなのだ。目的からの生の解放、それは確かに、苦しい。「どこまでいってもゴールではないとするなら、どうして努力する気になれるというのか?」確かにそうだ。
だが、その苦しさの中で、それでもなお、生きる。そのほうが健全だろう。われわれは目的があるから生きるわけではないのである。

ニヒリズム とその克服>というニーチェ の思考がめざすのも、そうした端的な生の肯定なのだ。
端的なる生の肯定、それはあえて言うならば、神の祝福とでも言うべき美的な状態なのかもしれない。そのとき人は「子ども」であり芸術家である。だが、美であれ、生の肯定であれ、それらは結果としてそうなっていたということはあっても、目的として想定してはいけない。目的として想定できないのだ。

だから、いつも私がたどりつく結論は「結論づけないという結論」。芸術が、何か超越的な存在として固定化して頭上に掲げてしまった時点で死に絶えるように、何事も、固定化してしまった時点で死に絶えるのだ。その固定化されたものが「大きな物語 」の姿でもある。

しかし「絶えざる生成」を欲するとは一体どういうことなのだろうか?常に自己をずらして「物語り」続けていくということは?「忘れ、笑い、戯れる」、そうしたことがキーワードとして浮かんでくるのだが・・・。


・・・そう、「悩め!!若者!!!」
こうした青臭い時代は、けっして無駄ではない。