『“いんねん”の理』 | Ameba版・天理教よふぼくの集い

『“いんねん”の理』

『さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情はどういう事でなるのであろう。どれだけ話聞かそ。理を分かりて後一つの心聞き分け。内々事情、親々一ついかなる理、一つには道を伝え道を運び、事情“いんねん”の理が分からん。“いんねん”も遁れるも“いんねん”、遁れんも“いんねん”。遁れるや一つ“いんねん”の事情話すれど、“いんねん”というは成らんは“いんねん”という。その事情を聞き分けたなら、又一つ“いんねん”の事情を諭すれど、めん/\の事情分からん、分かる事情がある。さあ/\どれだけどうと思うても、思う通りに成らんが事情という。“いんねん”の事情分からねば“いんねん”の事情寄せる。前生の“いんねん”ならと言うて捨てる事情ある。聞くも見るも“いんねん”の事情がある。又候の“いんねん”がある。これより諭すれどめん/\“いんねん”が分からん。これだけ運ぶ。これだけ尽す中に、“いんねん”遁れそうなものや。速やか言えばどうであろう。尋ねば尋ねる事情聞き分けにゃならん。日々不足事情持たず、十分という心定めてみよ。第
一はこんな事では世上に済まん、神の道にも済まん。“いんねん”の事情分からんにゃ、繰り返さにゃならん。“いんねん”というはどういうものであろう。成らん事情治まらんにゃならん。よう聞き取って、日々に勿体(もったい)ないという理を持たす神の事情十分の理を運んで居る。家業という事情定めて楽しみ一つの事情、何かの事情定めてくれるよう。』(M23、12、18 刻限御話)