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光源氏が蘇った。
よかった。

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与謝野晶子訳で。

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死んだはずの源氏が空蟬(うつせみ)を口説き続けている。

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物語が存在し続けるというのも、なんだかセツナイね。
セツナイって、キリない、って書くよね?

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切ない。

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人は同じことを繰り返すが、この蘇った光源氏ほどではない。
光源氏も、訳の違いでビミョーに違ったことを言ったりはするが。

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蘇(よみがえ)り、と甦(よみがえ)り。
どう意味が違うのだろう?
この場合、どちらが適切なのだろうか?

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死んだ人間が生き返るのとは違う。
来世にヨミガエル、というのとも違う。
前者は、(死ぬ前の)生の続きを生きる。
後者は、新たな生を生きる。

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光源氏は、物語の登場人物たちは、同じ生を、続きからではなく最初から生きる。

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この考え方も違うのだろうな。

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物語の時間と空間。

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物語のなかでは、一瞬一瞬が全体なのだ。

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繰り返し、とは、読む者が感じるだけ。

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源氏が生まれる前から源氏は空蟬を口説いていて、源氏の死後、舞台が宇治に移っても、彼は空蝉を口説き続けている。

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物語の構成要素は、すべて、部分であるとともに、物語そのもの、物語の全体なのだ。