200803151516000.jpg

たとえば、蝉たちが鳴き続ける「蝉時雨」。俳句の季語としても使われる。俳句の季語は、季節のメタファではあるが、その季節に対する感情、思い、といったものも重ねられる。
「蝉時雨」が「夏」の時期を単に指し示すだけでなく、「夏」という言葉、時期が読み手の中に呼び醒ますものも重なるということ。
また、季語としての機能から離れて、日本語を使う人々がその言葉(蝉時雨)から想起する、ある情感だのむにゃむにゃだののメタファも重なるからややこしい。たとえば、僕の場合、蝉たちの鳴き声は夏の「終わり」、蝉の生の「終わり」と、「終わり」を思い起こさせる。ある情熱が退いていき、沈んでいき、それを留める手立てもない。そして、その増減幅しながらの止むことのない鳴き声は悔やんでも悔やんでも悔やみきれない悔恨の痛み、ズキンズキンに重なっていく…
言葉のもたらす作用は、変幻自在というか、思いもよらぬ旅への誘いの感がある。いくつもの意味=言葉が浮いては沈み沈んでは浮いていき、何が何の喩えであったのかも朧(おぼろ)になっていく。これらの浮き沈みを眺めながら、幻影の海を流れていくかのような思い。

酔ったので、とりあえず、ここまで…