昨日、鎌倉は円覚寺の足立大進管長のご講和を聞かせて頂いた。
 
まず敬意を感じたのは、きちんと原稿を準備されていたことだ。一番前の席に座ったので、原稿の左上に開けられた穴に、白、と言うよりアイボリー色の糸が通され、綴じられていたのが見えた。もう何十年もこのような場に立たれておられるだろうに。

お話が始まった。

-私は何者であるか?
-なぜ今、私はこうしてここにいるのか?
-私にはそれが分からないのです。
 
こう切り出されて、お話が続いていった。

-「妙(みょう)」としか言いようがない。「妙(たえ)なる」、と言ってもよい。
 
そのようなことが起こるまでは誰も予想すらしなかった悲劇的な出来事などをいくつか挙げられ、確かなものは、、、
 
-この世の中で唯一動かないものは、「老・病・死」だけです。
 
「個の尊厳」を主張するならば、「個」=「己の命」を本当に見つめているのか自問して欲しい、というようなことを言われた。
「点としての命」ではなく、連綿とつながった「命のつながり」、世の中の全てのものに「生かされた命」に思いを馳せて欲しい、と。
それが「縁起(えんぎ)」である、と。
今、自分がこの場所にいるのは、様々な条件、ご縁等々、、、があって初めてここにいることができる、ということを考えて欲しい、と。
 
それから、帝釈天の話をされた。
(帝釈天とは仏教の守護神ではないかと思うが、私の聞き間違いだろうか?何か、天界のひとつの相のことも指すのだろうか?)
帝釈天では、「帝網珠(たいもうじゅ)」と呼ばれる網が張り巡らされている。
その網の結び目のひとつひとつが「珠(たま)」で、世の中に存在するものはすべてこの「珠」である。
「珠」は己の命でもある。
「ひとつの珠(己の命)」の輝きは、網を伝わって「他の珠(他の人の命)」に移っていき、すべての珠を輝かせ、そしてその輝きはまた、「己の珠(命)」に還ってくる。
これが「命のつながり」であり、「命の重さ」である。
「点としての命」などありえない。
 
二宮尊徳の三つの才、「天・地・人」という三才(さんさい)について触れられ、二宮尊徳の言葉を紹介された。
 
-「父、母も、その父、母も我が身なり。我を愛せよ。我を敬(けい)せよ。」
 
この命の重さを受け止めることができるのは、「感謝の気持ち」しかない。
お経など知らなくても、手を合わせ、「おかげさまで・・・」と感謝することができる。
 
「天・地・人」、この世の全てのものに頂いたこの「命」、といった認識/感動の上に立った「個の尊厳」でなければならない。
 
しめくくりは、話を聞かせて頂いていたのが、ほとんど50代、60代の経営者の方々だったので、、、
 
-「命への感動」、その感動を若い人たちへ伝えていって下さい。
 
と語られた。
 
まだまだ良いお話をして下さったのだが、書ききれない。
 
「帝網珠(たいもうじゅ)」、、、、自分の命の輝きが人の命を輝かせ、人の命の輝きが、自分の命へ、輝きとなって還ってくる。
 
「おカゲさまで・・・」という言葉は、「カゲながら」支えてくれている全てのものへの感謝の言葉なんだろう。