12月25日、キリストの降誕祭に旧約聖書の「ヨブ記」と「コヘレトの言葉」を読んだ。
ずいぶん聖書を読んでいないので、読もうとは思っていたが、なにを読むかは決めかねていた。
今月の初め、私のもっとも大切な年下の友人Y君のBlogで、「ヨブ記」に関する記事を読んだのが直接的なきっかけになった。
今月の初め、私のもっとも大切な年下の友人Y君のBlogで、「ヨブ記」に関する記事を読んだのが直接的なきっかけになった。
Y君は現在19歳で、フランス文学を学んでいる。
このようなご時世で、文学専攻とはある意味、無骨・反逆の香りがして頼もしい。
フランス文学専攻となれば、まずは何をおいてもフランス語ができなければ話にならないので、毎日フランス語と格闘しているようだ。
Bon Courage!
このようなご時世で、文学専攻とはある意味、無骨・反逆の香りがして頼もしい。
フランス文学専攻となれば、まずは何をおいてもフランス語ができなければ話にならないので、毎日フランス語と格闘しているようだ。
Bon Courage!
なんでも旧約聖書の授業で、「ヨブ記」に関する講義があったらしい。
講義をした神父様でもある先生がどのような解釈をされたかは詳らかではないが、ヨブが、自分の苦しみには意味があるということを悟った、というような解釈をされたらしい。
講義をした神父様でもある先生がどのような解釈をされたかは詳らかではないが、ヨブが、自分の苦しみには意味があるということを悟った、というような解釈をされたらしい。
彼の記事を私なりに解釈すると、
ヨブの苦しみの意味、生の意味を問うより、「その苦しみを克服する方法のほうが優先」されるのではないか、いかに生きるかを考えるべきではないか、ということになろうかと思う。
Y君は、その記事のタイトルを、「ダーザインだ、実存だ!」としている。
このタイトル付けは、面白い着眼だと思った。
「ダーザイン」はハイデガーの「現存在」のことだと思うが、「現存在」や「実存」というのは、素人的な乱暴さで言えば、「存在」を疑うことから出発するのではなく、「存在」をまるごと受け入れることから出発するという姿勢を指す、というふうに思う。
ヨブの三人の友人は、「神」をだしにして、ヨブを罵り続ける。
ヨブは「神」に対し、問いかけ、嘆き続けているが、「神」の存在自体は信じ続けている。
ヨブは「神」の試練、闇の前に立たされながら、滅ぼされないでいる自分という存在を持て余している。
ヨブは「神」に対し、問いかけ、嘆き続けているが、「神」の存在自体は信じ続けている。
ヨブは「神」の試練、闇の前に立たされながら、滅ぼされないでいる自分という存在を持て余している。
ヨブというダーザイン、「神」というダーザイン。
信仰とは、畢竟、「神」の存在をまるごと受け入れることが出発点ではなかろうか。
だとすると、Y君の言うところの実存主義的アプローチで旧約を読み解く、あるいは誤読するというのも面白い試みではなかろうか。
信仰とは、畢竟、「神」の存在をまるごと受け入れることが出発点ではなかろうか。
だとすると、Y君の言うところの実存主義的アプローチで旧約を読み解く、あるいは誤読するというのも面白い試みではなかろうか。
Y君にはぜひ、『ヨブへの答え-実存主義的試論』とでもいうような小論文をモノしてほしいと思う。
しかしY君も仏語の習得に忙しいと思うので、小論文に取りかかるのも負担が大きいだろう。
Y君、そこで老爺心からアドバイスをさせて頂ければ、、、
Y君、そこで老爺心からアドバイスをさせて頂ければ、、、
存在をまるごと受け入れることから始まるレンアイも、ひとつの実存主義的試みではないでしょうか。
ダーザインがダーザインに揺れる・・・
(注)Y君のBlogからの引用は了承を得ています。