昨日のブログに登場した「いのちの初夜」を借りてきた。まだページ開いてない。

ついでというか以前に借りて気に入っていた「地の糧」も借りた。

私は哲学や文学のファンだがかなりいい加減なファンで、要するに自分が元気になるような言葉さえ見つかればそれでいい。

たとえばサルトルの「嘔吐」は”マロニエの木の根を見て存在論的吐き気を覚える”

といった描写が哲学者や哲学”学者”の間ではあまりに有名だが、私は木の根を見たところで吐き気など覚えないし、それよりこの「嘔吐」のなかにある「午後四時という時間は何を始めるにも遅すぎる」という一文がなによりも好きだ。というかそこしか好きじゃない。つまりは私はかなり下衆な哲学ファンで、サルトルのような第一級の(といってどのあたりが一級なのかすら知らない。どこかの本にそう書いてあっただけである)哲学者の口から、自分もそう思う、と思える大衆的なセリフを聞くのが好きなだけなのだ。

 

ジッド(くわしくは誰か知らない。フランスの小説家らしい)の「地の糧」という本は不思議な本で、ジッドが親愛なる相手に終始語り掛けるような、詩のような散文のような文章が延々続き、適当に開いたページの一文を読むだけでなんだか高尚な気分になれる。

たとえば

”君はたくさんの書物を次々に開いてはまた閉じ、書物が垂れる啓示以上のものを求めながら、君の情熱が寄る辺も無き思いにやがては悲しみとなろうとしている。そういう夜のひと時に、私は君を訪ねたい。君のために筆をとる”

とある。つまりは本を開きその言葉に救われることを期待しながらそれが叶わないような夜に、私は君のために筆をとりたい、とジッドは言っており、この「地の糧」がまさにそのような本になっている。はっきりいって隅から隅まで読み通そうとは思わないが、あと数ページ読んで図書館に返却するが、本棚の隅のほうにいてほしい本の一つではある。下記は「地の糧」のかなり最初のページより。さいきん半紙に墨で書くのが好きなので書きたくて書いただけ。でもいい文章だと思う。字は初めから綺麗に書こうとしていないのであしからず。これからときどき日記がてら書道をしてみようと思う。そして少し眺めたら捨てる。DAISOで大きめのごみ箱を買おう。

 

我々が人生に興味をもつためにどれだけの努力を払ったか、君にはとうていわかるまい。しかし今、実際何事にも夢中にさせられてしまう