image

AMAZONレビューで他の方が「解説から読むとよい」とあったのでこの書の訳者である酒井さんによるあとがきから読んだところ、バタイユを少し理解することができた。酒井さん(といってお会いしたことなどないが)はバタイユがご専門なのか、ほかにも多くのバタイユ訳を出しておられ、私も何冊か手を出したが、きっともともとのフランス語が恐ろしく難しいに違いない、訳はもちろん日本語なのに、まったく歯が立たない。

 

バタイユ理解のために引用されるのは北条民雄さんという小説家の書かれた「いのちの初夜」という本だ。ハンセン病療養所の話である。主人公尾田はハンセン病にかかり、療養所に入所する。その最初の夜が初夜なのだ。尾田は自分を悲観して療養所脇の林で自殺を図るが失敗する。その一部始終を見ていたのはすでにハンセン病のかなり進行した、いわば療養所の先輩、すでに顔の肉が崩れ、義眼を嵌め込んだサエキ(佐柄木)である。サエキは尾田を諭す。

 

===以下あとがきより===

サエキ「尾田さん、あなたはあの人たち(ハンセン病患者たち)を人間だと思いますか?」

尾田は質問の真意を測りかねる

サエキ「尾田さん、あの人たちは、もう人間じゃないんですよ」

尾田は当惑する

サエキ「人間ではありません。尾田さん、決して人間ではありません。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。あの人たちの『人間』はもう終わってしまったんです。ただ生命だけがびくびくと生きているんです。なんという根強さでしょう。」

サエキ「・・・新しい思想、新しい眼を持つ時、再び人間として生き恢るのです。復活、そう復活です。新しい人間生活はそれから始まるのです。」

===引用終わり===

 

『人間』をやっている限り見つめることができないものを、『人間ではない、いのちそのもの』の眼”だけが”それを見つめることができるとしたら、畏敬の念、むしろ”あこがれ”を覚えないだろうか。以下持論になるが、バタイユは極論すれば「動物になれ」と言っているのだ。それはなにも、本能に身を任せて一日中地面に鼻面をこすりつけて食べ物を探せ、などという意味ではまったくない。人間は何かをしようとするとき、何の役に立つのか、そうすることで何がどうなるのかという、有用性などの判断基準しか持たない。その『人間』の眼で見ることができるのは世界のごく限られた一部分にすぎない。その『人間』を死ぬまでやり続けるほかない人間は、どうすれば内側から自分の殻を打ち破り、本当の『世界』にむかって自分自身のすべてを流出させることができるのか、それをバタイユは模索している。

というわけでようやく本文を読み始める。image

麿赤児さんって結構これに近いかも、なんておもったりしてみる。