インド指導者:ガンジー「My life is my Message」 | ヒョンジン・P・ムンのブログ

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‘2018 インド・ワンコリ国際フォーラム’

ガンジーの精神的価値を共有

 

マハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi。1869〜1948)は、イギリスの植民地支配時代に非暴力抵抗運動を通して、最終的に祖国インドを独立に導いた指導者として今も全世界の人々から尊敬されている。そして、1919年3月1日に朝鮮半島で起きた3・1運動もまた非暴力抵抗運動である。

 

 

韓国とインドは独立記念日が同じ日でもあり、深い関係性を感じられる。1945年8月15日、大韓民国は日本からの独立を成し遂げたか、2年後の1947年8月15日にインドもイギリスからの独立を遂げた。植民地支配の非暴力抵抗運動の歴史を共有するだけでなく、独立記念日も同じであり、両国の関係がまるで運命的に繋がりがあるかのようだ。

 

「ワンケイ・グローバルキャンペーン(One K Global Campaign)」は、朝鮮半島の統一実現により冷戦を終結させ、世界平和に貢献する新しい国家建設のビジョンを掲げ市民社会が連帯して繰り広げるグローバル統一運動である。これまでのキャンペーンの一環として国際的な指導者や専門家が参加する中、開催してきた“ワンコリ・アフォーラム”が、10月16日にインドの首都、ニューデリーのガンジー平和財団で開催された。フォーラムのテーマは「韓国・インドの21世紀世界公民権運動と持続可能な平和繁栄」であった。

 

▲10月16日にガンジー平和財団で「韓国・インドの21世紀世界公民権運動と持続可能な平和繁栄」をテーマに‘2018 インド・ワンコリ国際フォーラム’が開かれている。

 

インドのガンジー平和財団とグローバル・ピース財団が共同主催した今回のイベントには、韓国とインドの平和問題の専門家と市民社会団体の指導者など70人余りが参加した。彼らはガンジーの生涯と彼の平和運動が韓国の3.1運動と共有する思想、そして両国の独立と繁栄を導いた国民的意志の背景を省察した後、朝鮮半島の統一から世界平和への道が開かれると意見を集めた。

 

この日のフォーラムに参加した各界の代表は、来年3・1運動100周年記念ワンケイ・グローバルキャンペーンに積極的に参加し訪韓すると意志を表した。

 


 

My life is my Message 

私の人生が私のメッセージである

 

 「未来は現在、私たちが何をするかにかかっている」

 

*モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(Mohandas Karamchand Gandhi、1869年10月2日 – 1948年1月30日)は、インドの民族運動指導者・思想家・弁護士。インド独立の父とされる。

イギリスに学び、弁護士を開業。初め南アフリカでインド人に対する人種差別政策の撤廃運動に従事。第一次大戦勃発後に帰国し、非暴力・不服従主義により自治拡大、独立の実現に努めた。また、不可触民制の除去、農村の復興に努力。イスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和に腐心したが、インド独立後まもなく狂信的ヒンドゥー教徒に射殺された。「マハートマー」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称である。日本語では「ガンジー」とも表記される。1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になった。

 

 

「My life is my Message」(私の人生が私のメッセージである) - マハトマ・ガンジーが銃弾により倒れた時、着ていた服に書かれた文句である。ガンジーの生涯は、彼が残したこの文句のように人生そのものが人類に伝える教訓である。

 

ガンジーはインドがイギリス植民地支配を受けていた頃、イギリスと南アフリカで人権弁護士として活動し1919年にイギリス議会が「ロールレット法」(イギリスに反対するインド人を処罰する法)を通過したのをきっかけに、インドへ帰国し本格的に祖国の独立のための非暴力抵抗運動に乗り出した。そのため、逮捕・投獄(1922〜1924)の苦痛を経験することになる。しかし彼は出獄後もイギリスがインドを独立させるという当初の約束を守らすに作成されたロールレット法の廃棄のため、「塩の行進」(1930)を主導するなど、運命の瞬間まで平和運動に人生を捧げた。

 

 

*塩の行進(しおのこうしん、Salt March / Dandi Satyagraha)とは、1930年にマハトマ・ガンディー並びに彼の支持者がイギリス植民地政府による塩の専売に反対し、製塩の為にグジャラート州アフマダーバードから同州南部ダーンディー海岸までの約386kmを行進した抗議行動のことである。この行進は3月12日から4月6日まで続き、インドのイギリスからの独立運動における重要な転換点となった。

 

ガンジーはインドの独立運動の指導者としてだけではなく宗教者としても、国民から尊敬を受けた。様々な宗教の教義を渉猟したりしていた彼は、ヒンズー教徒であったが「私はキリスト教徒でもあり、ヒンズー教徒でおあり、イスラム教徒でもあり、ユダヤ人である」とも語った。彼が残したこの語録は今日も、宗教が互いの間の葛藤を越えて共存するための指針としての価値を持つと評価されている。

 

ガンジー博物館にはガンジーの遺品が展示されており、彼の生涯が記録された資料が多く保管されている。 「未来は、現在我々が何をするかにかかっている」、「非暴力は人類が活用できる最も強力な力である」などガンジーが残した名言を見つけることができる。

 

彼は祖国が多くの困難に直面している時、流暢な演説をしたり立派な説教をしたのではない。代わりに彼は祖国の苦痛の中、自ら飛び込んで問題を解決しようとした。

 

イギリスはインドから綿を安値に取り入れ綿製品を作成した後、高価格でインド人に販売し暴利を取った。イギリス人は裕福である一方、インド人はいくら一生懸命に仕事をしても貧困のままであった。それに対しガンジーは毎日糸車を回し自ら服を作り、これはイギリスに対し非暴力で対抗するものでありインドの国民に自ら服を作り着ようというメッセージを送ったのだった。インドの国旗の真ん中に糸車の形がある理由もここにあると言われる。

 

 

インドで塩が生成されるにも関わらず、イギリスはインド人は必ずイギリス産の塩だけを買って食べるように植民地政策を繰り広げ、さらにイギリス産の塩に高価な塩税を課しインド人を搾取した。これに対してガンジーは61歳の年齢で40度を超える中、内陸からダンディビーチまで一ヶ月間、塩の行進を実施し非暴力でイギリスに抵抗し、78人で始まった行進は最後に数万人にまで増えていった。彼はダンディビーチに到着し、直接塩を作成しその塩を取り出し味を見る彼の姿はインド人たちに大きなメッセージとなった。

 

 

1947年8月15日、インドはイギリスから独立した。しかし祖国はヒンドゥー教とイスラム教に分かれ、最終的にはインドとパキスタンに分かれた。ガンジーはヒンドゥー教とイスラム教が一つになるための新たな挑戦が始まり、祖国の凄惨な状況を自ら断食をし表現した。両方を行き来し和合のための活動を広げていく中で、1948年1月30日、ヒンドゥー教とイスラム教の間の融合に反対した過激ヒンズー教徒が撃った凶弾により79歳で死亡した。

 

生涯を通して彼が残したメッセージは、偉大な魂となり100年の歴史と国境や宗教を超え、今だ多くの人々の心に響き渡っている。