個人的な人に宛てた応援メッセージです
今は大越先生の言葉を少しずつ書いていきます

心の奥深く沁み込んだいじめの記憶

塾に来る子どもたちにもいろいろのタイプがありますが、来てすぐ元気になる子がかなりいます。
塾の入口に立ったとたん、ああ、これが自分の求めていた空間であると、さも居心地よさそうに一日中、何かをして過ごしています。
不登校で一家中を振り回していたことなど嘘のように、みんなと活発に話もする、行事にも加わるという具合で、これなら何の心のケアなどいらないように見えるのです。

ところが、このような子に限って、話がある部分に触れそうになると、今度は嘘のように黙りこくってしまいます。
ある年の、越前海岸の「告白合宿」でのことです。
告白者である彼は、中学2年の2学期から不登校になり、そのあと入った専門学校も1週間で中退し、自室でパソコン通信に明け暮れるようになりました。
パソコン通信で得た大人顔負けの知識で議論したり、「小学校時代の先生が、不登校の女の子をクラス全員で迎えにいくなどという、本人の心を逆なでするやり方をしたのは許せない」などと、独自の批判能力を発揮していました。一見すると、なかなか利発な青年です。

ところが、話が彼の不登校の原因に及び、「いじめがあったらしいね」と一言触れた途端、それまで穏やかに答えていた彼の顔が、突然、ひきつったように硬くなってしまったのです。私は彼のこの表情の変化を見逃しませんでした。過去のいじめの傷は、本人の意思と関係なく、もう心のひだに沁み込んでしまっていたのです。私はすかさず話題を変えました。
おそらくこのとき、それ以上この問題を突っ込んでも、彼は一言も答えなかったでしょう。それほどいじめの恐怖は彼の心の奥深く、思い出したくない記憶としてしまわれていたのです。

じつは、このような過去の具体的な恐怖と、日常的にある正体不明に見える不安の間には密接な関係があるのです。
これはお母さん方も同じことです。たとえば、子どもが学校へ行かなくなると、ほとんどのお母さんはパニックに陥ります。パニックとは、「今までの知識や経験では対応しきれない大きな出来事」の事です。
子どもには学校へ行ってほしい反面、その子にどう対応していいかわからなくてオロオロします。実はそのオロオロの気持ちの背後には、えもいえぬ不安があるのです。

この不安の正体を知るために、その対極にある幸福について考えてみましょう。対極にあるものを考えると、正体がよりはっきり見えてくるからです。
言うまでもなく幸福そのものには、実態がありません。目に見えるものでも、手に触れられるものでもなく、ふと感じるものだという事です。同様に、不安も恐怖も実態として存在するものではありません。幸福と同じように感じられるものです。
この機会に、不安と恐怖について説明しておきます。不安と恐怖は微妙に異なります。どう違うかと言うと、恐怖は知性で感知できるもので、不安は感性で感じ取るものであるとされています。
また、「恐怖のあとのめまいが不安である」などという文学的な言い方もあります。つまり、恐怖は不安に先立つものであるということです。

つまり、自分の理性で受け入れがたいものが押し寄せてくると、まず人間は恐怖を覚え、そして次にはそれを本能的に消し去ろうとするのです。このように、人間は恐怖を消すことによって生きていけるわけです。こういう心の動きを、作家の五木寛之さんは、「人間は悲しみを忘れられるから生きていけるのだ」と言いました。言い得て妙です。
これは、不登校の子どもたちの話からもうかがい知ることができます。彼らは今、とても不安を感じているわけですが既述の通り、その不安に到達する前に、恐怖を味わっているはずなのです。しかし、そのことを聞いても、彼らは覚えていないと言います。つまり、学校に行けなくなったという具体的な恐怖を、目の前から消してしまったのです。そして今は、恐怖のあとのめまいである不安に、苦しめられているのです。

もちろん同じことがお母さんにも言えます。親子ともども、無意識のうちに、あったはずの恐怖に対して頭の中を白くして逃れようとしているのです。
恐怖を除去してしまう本能は、確かに人間を救いますが、恐怖が残していった不安を取り除くためには、その恐怖に再び立ち向かわなくてはなりません。つまり、酷なようですが、恐怖の正体は何だったのかを直視しなければならないのです。めまいがするからといって、フラフラと目をそらしていたのでは、何も解決しないのです。

「不安の原因がわかならいから不安なのです。まず、恐れの正体を知りましょう。」

「自然に勉強する気になる子の育て方」P74~77より