不安を育てるのは嫌いだ。
 まだ起こっていないことや、起こったかどうか分からないことを思い悩んでも仕方ない。
 相手がどう思っているかなんて、相手の勝手だ。私にどうこう出来ることではない。相手が私の思いに応えないからといって、それで私が諦めてしまえるわけじゃないのだし。
 私は自分の感情の動きと、相手への私自身の思いを、十全に把握して大切に育てることの方が好きなのだ。極端なことを言えば、相手が何を考えていようと、誰を好きだろうと関係ない。私が相手を好きなだけ。
 それでも、次第に不安が忍び寄ってくるのを感じる。突然の哀しみの波に乗って、不安が心を蝕み始める。
 Fはただ忙しくしているだけなのか? 私と距離を置くことに決めたのだろうか。もしやDさんに何か言われたりはしていないだろうか。一体、少しは私のことを思うのだろうか。

 くりかへし すぎしおもひで なぞりつつ たよりなきよを ひとりかぞえる

 Fには送らない歌。今は待つしかない。
 Bにはメールを書いた。とても久しぶりのやりとり。まだFとのことは知らせていない。もう少し落ち着いてから知らせるか、あるいはこのまま、もっと心が弱くなって助けが必要になった時に、Bを頼ることになるのだろう。
 今はまだ一人で感情をもてあそんでいられる。
 たった一通のメールさえ来れば、たちまち消えて無くなるはずの、不安。

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 Fと会えないまま3週間目に突入。最後のメールからも一週間以上。いろいろ気を紛らしてはいるけど、やっぱり辛いな。時々、突然、涙が出そうに胸が痛くなる。すぐにおさまるのだけれど。

 共通の知人であるDさんからメールが来た。彼はもうすぐインドに出発する。4月に帰国したら、一度会いましょうと。それと昨日、Dさんは実家から東京に戻る途中にこちらに立ち寄って、Fと3時間ほど会って話したらしい。
 Dさんへの返事も書かなきゃ。Dさんからメールが来たことをネタに、Fにもまたメールしようか。
 いつになったら会えるんだろう。論文、早く終わればいいのに……

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 夕食を食べ始めようとする直前、生理が来た。
 ここ数日気を揉んでいたが、不安が一気に溶けて無くなった。今朝から予感はあったものの、腰回りが重くてもお腹が痛くてもなかなか始まらず、トイレに行ってショーツをおろすたびにがっくり来ていた。
 食卓に皿を並べ、一旦座った時、ふっと腰が痛くなり何かが流れ出るのを感じた。もしやと思ってトイレに駆け込むと、ショーツに血が付いていた。自分の血を見てあんなに嬉しかったことはない。
 もう妊娠検査薬を買いに行かなくていいし、産婦人科を探さなくていいし、手術の時に持って来いと言われる生理用のショーツを買いに行かなくてもいいし、夫にバレないように手術の予定を入れなくてもいいんだ。
 腹が立つほどに予定通り始まったということは、やはりFと寝たあの夜は、一番危ない日だったのだ。Fはきちんと外に出してくれたのだろうが、万が一の失敗はある。もっと気を付けなければ。2週間、頭の片隅で不安が消えることはなかったんだもの。今夜やっと、安心できた。
 おかげで、今夜は久しぶりに機嫌良く、だんなと食卓を囲んだ。

 昔、ベッドの中で、Bが私に聞いたことがある。俺の子供産んでくれる?
 その時BはまだS子さんと離婚する前だったが、ウチと同じく子供がいなかった。私は、Bさんの子供なら産んでもいいよ、でもあんまり年とらないうちにね、と答えた。Bは笑いながら、でもそれじゃ、Wはどうするの?と聞いてきた。私はあまり深く考えず、いいパパになるんじゃない?と言った。もちろんそんな会話は、真剣な話ではない。でもBは多分、自分の血を分けた子供が欲しかったんじゃないかと思う。
 正直な話、私は誰の子だろうが、産むのは構わない。相手が育ててくれるなら、産むところまでならやってもいい。でも子供を育てる気はない。子供の母親になるのはごめんだ。私が母親になれるわけがない。私の両親のように、子供を抑圧するのが目に見えているから。

 ついこの間、Bの元妻であるS子さんが、うちに泊まりに来た。彼女も私たち夫婦にとっては大学の先輩で、付き合いが長い。東京に帰った時にみんなで食事をしたりと、しょっちゅう顔を合わせている。離婚のことは、一度も話題に出たことがない。泊まりに来たときもそうだ。だんなと私とS子さんと3人で、パンケーキを焼いて仲良く朝ご飯を食べた。彼女はBと私に肉体関係があることに、全く気付いてないわけじゃないと思う。でも、何も言わないし、仲良くしてくれる。Wだって気付いてないわけがない。それでも変わらず、Bとは遠慮のない友人のまま。狭い人間関係だから、私たちみんな、感覚がどこか狂ってしまっているのかもしれない。
 近い内に一度、Bと逢いたいと思っている。離婚の事情だって本当は話して欲しいし、Fとのことも報告しなければ。きっとBと会えば、Fへの気持ちももっと落ち着くはずなんだ。すぐに熱が冷めるわけじゃなくても、もっと落ち着いて考えられるようになるはず。お正月に東京に帰る時にでも、会えないだろうか……

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 思いがけずFからメールが来た。
 月曜の深夜にレスは不要と断った上で、カフェを紹介するメールを送っていたのだが、そのカフェに行ってみたら店が無くて電話も通じなくて、潰れちゃったみたいだと書いてきた。それに絡んでたわいもない日常の雑談が少し。それから、共通の知り合いで先輩であるDさん、例のルルドの話題でこの間も名前が挙がったDさんに、論文の感想を転送したら「いたく感動」されたとか。そんないくつかの話題を綴ったメール。
 最後の一文は「それではお風邪など召されませぬよう」。

 私もたわいないメールを返した。
 無駄足を踏ませちゃったお詫びと、買い物に行ってノベルティをゲットしたこと、あとDさんのこととか。
 最後の一文は「風邪など、どうぞ召されませぬように」。

 こんなメールのやりとりが、仕事と論文書きに追われているFの、ちょっとした息抜きくらいにはなるだろうか。私もFも、会えないのが寂しいとか、そんなことは一言も書かない。恋人ではないから。けれどFは、論文が終わったら話し相手になって下さい、とは書いてきた。いつ終わるのかな、と私は返した。
 次に会えるのは、いつなんだろう。2年くらいしかこの町にはいないつもりだとFは言っているから、本当は時間が惜しい。期限を切られてしまうと、本当はすごく切ない。2年の間に、離れても愛せるようになるのだろうか……まだ、遠いな。2週間会わないだけで、こんなに辛い。

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 Fが忙しいらしく連絡するのも気が引けるので、当分進展は望めない。それでも毎日毎日Fのことを考えていて、我ながら莫迦じゃなかろうかと思う。この間会った時のことを思い出し、次に会う時のことを想像する。抱きしめるところを考え、抱きしめられるところを考える。私の脳が吐き出す脳内麻薬が、私を中毒にする。

 この間Fが部屋に来た時、私たちはNIRVANAを聞きながら、木製のテーブルの角を挟んで、ナナメの配置で座椅子に座ってビールを飲んでいた。その日Fは丁度、新しいメガネを受け取ってきたところで、夜遅くなってきたのでコンタクトを外してメガネをかけた。見慣れない顔が物珍しく、私は飽きもせずメガネをかけたFを眺めた。視力がどれくらいかという話になり、お互いよく覚えてなくて、でも私のメガネケースの中には視力検査用のカードが入っていたので、それをFに渡した。30cm離して見るんだってよ、と言うと、Fはメガネをかけたまま片目をつぶったり、両目で見たりしていた。私もメガネをかけて、Fの隣で試してみた。Fは私のメガネをかけてみて、全然見えないや、と言った。私は乱視で、近視があまり入っていない。そんなことをしているうちに、隣にくっついてしまい、気が付くと、私は後ろからFに抱きかかえられていた。本当に、気が付くとそういう体勢になっていたのだ。私はご機嫌で、胸の前で組まれたFの手を撫でながら、"RAPE ME"がかかれば「この曲好きなのよ」と言い、"THE MAN WHO SOLD THE WORLD"になれば「あ、コレ、DAVID BOWIEの曲なのよ」とFに説明しようとした。そうしている内に、私は肩越しに振り返り、わけもなく嬉しくてFに笑いかけた。Fは何も言わず、笑い返すでもなく、私の身体に腕を回したまま優しい眼差しで、ただ、息をしていた。私は身体を少しひねって、Fの頬に指先を伸ばした。顎の辺りに唇を寄せ、軽くキスをした。Fの腕に力が入り、一緒に立ち上がる格好になった。
「ン? どしたの?」
 Fは答えなかった。私を抱えたままテーブルの角を曲がり、部屋の真ん中の方で再び2人で床に腰を下ろした。軽く向かい合うような形で、Fは少しの間、私と見つめ合った。私はFを見ているのが嬉しくて、ずっとニコニコしていたと思う。Fが唇を重ねてきた。私はそれに答え、優しく舌を絡め合う。唇が離れると、私は小さく笑いながら言った。
「メガネかけた同士でも、キスってできるのね」
 普段はメガネをかけていないので、実際にメガネをかけた同士でキスをしたのは、その時が初めてだったのだ。Fはこの時も笑い返さず、優しい、でも生真面目な顔で私を見つめているだけだった。何かを思うようにFの手が私のメガネに伸びてきて、それを外した。私は不思議そうな顔で、自分のメガネの行方を追った。テーブルの上にそっと置かれた赤いフレームの映像が、今も頭に残っている。視界の端で、Fもメガネを外しているのが分かった。Fは一つずつためらうように、私の身体を抱き寄せて、それから唇を重ねた。さっきまでのとは違う、激しいキスだった。私は喉の奥で喘ぎ、鼻先で喘いだ。Fの体重がかかってきて、私は床に倒れた。私の髪を撫でながら見下ろしているFの頬に、私も指を伸ばした。
「誘惑しないって、言ったのに」
「言ってない」
 そう……そうだったわね、あなたは言ってなかった。あなたは何も言わなかった。

 あなたほどひどいオトコを、私は他に一人も知らない。女を抱こうっていうのに、「好きだよ」の一言もなしで済ませようなんて。どんなヤリたいだけのオトコだって、好きだよ、大好きだ、キレイだよ、君は最高だ……って、念仏とでも思って10ぺんでも100ぺんでも唱えてくれるのに。好きだよの一言もなしに女を抱くなんて、そんなひどいオトコ、あなたの他には一人も会ったことがない。よっぽどの照れ屋さんなの? それとも正直すぎてウソが言えないの?
 ……今度Fを抱く時には、そう言って苛めてやろうか。

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 月曜にメールを出した。研究職志望のFに参考になりそうなWeb情報を知らせたのと、以前送ってもらった論文の感想と質問を書いた。
 三晩待った。私にはとても長かった。
 今夜、外出から帰って来ると、メールボックスに彼の名前を見つけた。その瞬間、胸が躍り、勿体なくてなかなかメールを開けられなかった。他のメールを全部処理したあと、一番最後に、随分ためらった後、Fのメールを開いた。
 論文の感想のお礼と、来月にまた論文の締め切りがあるため忙しくしていることが書かれていた。一段落したら、私が送った感想について、ゆっくり話をしたい、とも。私も、彼も、この間の逢瀬のことには全く触れていない。

 私はもう意地は張らず、すぐに返事を書いた。食生活に苦労しているFのために、ネットで見つけたFの近所のカフェやめし屋のアドレスを貼り付け、共通の知人から来た手紙のことを書き、それから最後に、歌を二首添えた。
 あの夏、Fと初めて寝た後、Fはメールに歌を添えてよこし、私も返歌を贈った。
 その時の歌は確か、

 むしのねに うたかたの夢 さめたるも 秋月に溶け あなたは去りぬ
(虫の鳴く声で、束の間の夢が覚めてみれば、あなたは秋の月に溶けるように去ってしまってもういない)

 私が返したのは、

 雲居なる 秋月なれば また満ちぬ 夢やうつつよ 虫の命は
(天の高みにある秋の月ならば、また満ちることもあるでしょうが、この恋は夢がうつつである虫の命のように儚いものです)

 あの頃はずいぶんとつれない歌を返したものだ。

 今回贈ったのは次の二首。

 うたかたの 夢 呼び返す むしの音の 絶えて久しき 冬の三日月
 (二人で過ごした束の間の夢を呼び返してくれるはずの虫の音も絶えて久しい。今は冬の三日月があるばかり)
 冬時雨 髪もうなじも我が袖も 月の雫に かわくひまなし
 (冬の時雨に打たれて髪もうなじも濡れ、月を映す雫のような涙で、私の袖も乾く暇がない)

 Fが私のことをどう思っているか、気にするのは止めようと思う。Fという貴重な友人を、ただの恋愛と同じに、いつか終わって別れてしまう相手にしてはいけない。Bさんとの関係のように、離れていても終わらない恋にできれば……。今はまだ、私はFに熱を上げている。私の脳が、脳内麻薬を吐き出す。それも後2、3ヶ月のことだろう。その間に、私の思いをもっと深めてしまいたい。彼が誰に恋しても、私が誰に恋していても、変わらず愛していけるように。
 ……ルーズな恋愛と銘打ったブログを書きながら、いつの間にか、私なりの純愛になってしまっているなぁ。

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 さすがに書くのがためらわれる。
 ……夜、寝つけずに、オナニーをしようと、パジャマの上から手のひらと指先で乳首を弄り、Fの身体を想像した。軽く顎を上に向けたFの肩を、そっと両手で掴むところを。
 突然、想像の中のFの肉体が命を失って物体になった。腐乱し始めたのだ。全身が赤黒く変色し、皮膚の下から渦巻き模様に似た腫れが浮かび上がり、そこから虫が湧いて蠢いていた。ヤバイ、と思って、私は匂いを想像するのを止めたが、腐乱していくFの肉体を、想像の中でじっと見つめ続けた。ずっと同じ距離から。
 想像の中の腐乱は、グロテスクではあってもどこか淫靡だった。デコラティヴで、様式的な腐乱。私は腐乱したFを見つめながら、それでも愛しいと思った。
 「愛しい」という言葉をFに向けて感じたのは、その時が初めてだった。好き、大好き、恋している……とは言ってきたが、愛しいという言葉は使ったことがないはずだ。腐乱したFが愛しかった。これは私の中の感情の、一つの変化なのか?

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 2人でビールを飲みながらNIRVANAを聞いていると、"RAPE ME"が始まった。私この歌すごい好きなの、と言うと、Fはどうして?と訊いた。好きな歌だと女が言うには、あまりに不穏当なタイトルかもしれない。その時は、いい曲じゃない、くらいのことしか答えられなかった。確か、そんなやりとりをしている間に2人の距離が縮まり、キスをして後ろから抱きしめられた。
 この歌が好きな理由を、Fと別れたあと考えてみた。この歌が纏っている陰鬱でお先真っ暗な、希望が一つもないような気分が、ちょっと分かるような気がしてしまう。はじめから無かったように消えて無くなりたい気分。それでもカートの場合、誰かに助けて欲しくて、助けて助けて!と歌っている。助けて!と歌っているのに、出てくる言葉がRape meだなんて……哀しすぎて救いがない。そういう救いの無さが、すごく好きな理由かもしれない。カートはガレージでショットガン自殺した。死後数日、発見されなかった。
 助けて欲しい時には、ちゃんと「助けて」と言わなきゃいけないんだってこと、私は大学の頃にやっと覚えた。Bとの関係の中で、少しずつ心が覚えていった。これを身につけないまま生きていくのは、ひどくしんどいはずだ。
 私は自分が助けて欲しいのか、消えて無くなりたいのか、自分で区別できるつもりでいる。誰かに救いを求めるか、一人で死ぬか、間違えたりはしない。女々しい躊躇い傷で他人を試し、振り回すなんて、絶対にしない。

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 Fへの恋愛感情の出所を、私はかなり精確に認識しているつもりだ。
 彼が癌かもしれないと、私に直接、電話で知らせてくれたこと。これが大きかった。大切なことを直接知らせてきたというのが、彼との距離を近いものに感じさせた。
 自分が冷静でいられないほど動揺していることを自覚した。彼を失いたくないという気持ちが、友人としてのものなのか、それ以上なのかは、もともと曖昧だった。だから彼を心配する気持ちは、すぐに彼への恋へとスライドしていった。そして癌ではなかったと分かった時、その喜びは、恋心の高まりへとスライドしたのだ。
 脳が勘違いしてエンドルフィンだかドーパミンだかを吐き出し始めてしまっただけ……とも言えるかもしれないのだ。よく、同情が愛情に変わるなんて言うが、似たようなものなのだ。

 でも私は、この恋を味わい尽くしたい。我慢する辛さや、嫉妬や、苦しさも含めて、この恋の全部を味わいたい。
 Fは、長くても2年ぐらいでこの町を出て行く予定だ。その時までに2人の関係がどうなっているか、今は想像も出来ないけれど。

 Fからはメールも来ない。初めての夜のあとは、とても素敵なメールをくれたのに。たぶん彼はもう、私に恋はしていない。あのときは、私が彼に恋をしていなかったのに。こういうすれ違い方もあるのだろうか。それは泣きたいほど哀しいことだけれど、哀しさを抱きしめているのも、嫌いではない。彼も昔、哀しかったのだろうか。

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 眠そうなFに、ソファベッドを広げ、毛布と羽布団を運んだ。
「あたし、あっちで寝ようかなー」
 と意地悪を言うと、Fは素直に「ヤダ、さびしいー」と言ってくれた。
 一つの布団に潜り込み少しだけ話をした。
「Fくんって、いつから私のこと気にしてたの?」
「……内緒。教えない」
 ずっと前からだといい。会った最初の頃からだったら。
「私は最近よ? Fくんに恋をしたのは」
 これも少し意地悪だったかな。
 間もなく2人で眠りに落ちた。

 目を覚ましたのは私が先だった。私はFの肩先に唇を寄せ、そのまま寝顔を見て、寝息を聞いていた。Fの眠りはまだ深かった。
 私はそっとベッドを抜け出して、お風呂を沸かしながらシャワーを浴びた。その間にFも目を覚ましていた。
「お風呂入ってたの?」
「そうよ」
「気持ちよさそう」
「Fくんも入ってくれば? タオル出してあげるね」
 Fがお風呂に入っている間に、朝食の準備。切り干し大根とワカメのおみそ汁と、ワケギの辛子酢みそ、残り物のお揚げと大根葉の煮浸しに、解凍した玄米ご飯とごま塩。
 Fはけっこう感激してくれたが、急いで作ったせいか、残念ながらあまり美味しくできなかった気がする。
 もう一度NIRVANAをかけ、2人で手を合わせて「いただきます」と言った。
「すごい健康的な朝ご飯。だけどかかってるのはNIRVANA」
「その辺がアタシの限界かも」
 私たちは顔を見合わせて笑った。
 Fは朝起きると鼻炎が悪化していて、ティッシュが手放せない状態になっていた。口でしか息が出来ないせいで、箸がなかなか進まない。それでも出したものは平らげてくれた。
 私たちは口数が少なくなっていた。それでも、ぽつりぽつりと、いろんな話をした。ずっと、隣には座らなかった。少し距離を置いてFを眺め続けた。
 Fは、NIRVANAの海賊版みたいなビデオの中で、面白かったという話をしてくれた。テレビ出演で、その番組は実際に演奏はせずにカラオケだったのだが、それが余程イヤだったらしく、カートはわざとギターを弾いていないことが分かるようにいい加減な運指をしていたという。
「もう、こんな感じ」
 とFがやって見せてくれた。私は笑い転げた。
「カートみたいな子が、ビジネスするのは……大変だったでしょうね」
 カフカの話もした。Fの職場が、まるで『城』みたいに責任の所在が曖昧だと。
「主がいないの? ……ああ、『城』は辿り着けないんだっけ。やたら長い小説だったよね」
「うん。すごい長かった」
「『審判』も、そんな感じだったよね。カフカの職場も、よっぽどだったんだろうね」
「かもね」

 2時間ほどして、そろそろ行かなきゃ、とFが言った。一度帰って荷物を受け取り、職場の勉強会に行かなきゃならないという。私は昨夜のFの口まねをした。
「さびしいー」
 Fは笑って、私の唇に短いキスを何度も重ねて浴びせた。
「鼻炎がひどい時って、鼻で息できないから苦しいんだ」
「ディープキスしたら息ができなくなっちゃうのね」
「うん」
 今ならキスでFを殺せる……それはゾクゾクするほど色っぽい想像だった。でもきっと実際にやったら、鼻水だらけになってしょっぱいばかりかもしれない。
 タバコを買いに出るついでに、Fを駅まで送っていった。

 Fとは、しばらく会わない気がする。Fの方から連絡をくれるだろうか。
 寝てしまうと冷める、と言った私の言葉を、Fはどこまで真に受けているだろう。
 ……一つだけ、心配がある。Fはコンドームを着けなかったはずだ。中に出したりはしていないだろうか。酔っていて、後ろからだったし、よく分からなかったのだ。危ない日だった可能性がある。でもこのことは、Fとは話していない。

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