- 愛のむきだし [DVD]/西島隆弘,満島ひかり,安藤サクラ
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去年の邦画の中でやたら評価が高かった本作。
3時間40分(『涼宮ハルヒの消失』より1時間長い!)という長さを苦にしないぐらいの作品でした。
冒頭に出てくるテロップは「この作品は実話を元にしています」。
けどこんなん、映画観てる人間にとっては、これは話にハクを付ける常套句みたいなもの。
しかしてそのストーリーは……
父親に懺悔を強制された結果、盗撮魔になった少年が、
愛する義理の妹を取り戻す為に新興宗教団体に戦いを挑む!
というもの。
ね~よ!!!!!
……だが恐ろしいことに園子温監督の知人である盗撮界のカリスマが、妹を新興宗教から救い出したことがアイデアの切っ掛けになっているそうな。
なんつーか、この設定な時点で大半のフィクションは膝を屈する気がするわ。
もちろん、色んな部分は映画的な改変というか、面白さが増すような形になっている。
まず冒頭1時間が主人公ユウが盗撮魔へ変貌するまでの仮定を描いていて、これがまた笑える。
母親が急逝、父親は神父になるも女が出来て、すぐ逃げられて家庭不和。
父親は自身の負い目から息子にも懺悔を強要する……と書くと非常に陰惨な話なのだけれども、これを大まじめにやっているから物凄く面白い。
特にユウが盗撮を懺悔して父親に殴られた時の凄く嬉しそうな表情といったらない。
もちろん、ただのマゾではなく、ネグレクトに近い状態になっていた父親が暴力という形でも自分に関心を持ってくれることが嬉しかったからだろう。
そしてコイケとヨーコとの出会いから物語は本当に始まる。
本作はタランティーノ映画みたいに章立てられていたりする。
ユウが一章でコイケは二章、メインヒロインのヨーコは三章で語られる。
非常にコメディタッチの一章とは打って変わって、二章は笑いを取り入れつつもグロテスクさを強調した造りになっている。キリスト者の父親から体つきだけで淫乱呼ばわりされ折檻を受けるコイケは、ユウの鏡だ。
しかし彼女の場合は、結果としてそれを超克出来てしまう。
ただ、恐らくは心と引き替えに。
(ここは実は超克出来ていない……とか解釈の分かれるところかも。コイケ関連は一番考察が難しい)
ヨーコも父親からのセクハラに近い行いに耐えてきた為、男嫌いになって男性に暴力を振るうようになる。
まぁなんか今期アニメでそういう話があったような気もするのだけれど、それは置いておくとして要するにこの三人は父親との歪んだ関係性の中で犯罪めいた志向を持つようになってしまった三面鏡みたいなものになっている。
で、ヨーコの元にきたのがカオリさん、ユウの親父のところから逃げ出してきたあの女。
ところがヨーコとウマが合い、彼女を連れたまま親父のところへ出戻りしようとする。
その矢先ユウが女装した「姉御サソリ」にヨーコが惚れてしまい、ユウもヨーコに「聖母マリア」を見出す。
この交錯した関係は、更にカオリと親父がよりを戻し、ヨーコがユウの学校に転校してくることで複雑になる。
ユウはヨーコが好き。
ヨーコはサソリ(ユウ)が好きだけど男が嫌いなのでユウは大嫌い。
カオリさんがヨーコを連れてオヤジの元へ来たので、ユウとヨーコは義理の兄妹になる。
ヨーコは嫌がるが、サソリ(ユウ)に電話を掛けて助言をもらい、ユウと仲良くなろうと努力する。
こんな感じ。
絶対コレどっかのアニメで観た事あるな。
こんなごっちゃごちゃになってはいなかったと思うが。
しかし、この微妙な関係はコイケがサソリを騙ってヨーコを陥落させることで崩壊する。
更にユウの盗撮癖も暴露し、彼の居場所は盗撮仲間の所にしかなくなる。
コイケに言われるままAV業界(男優ではなく盗撮カメラマン)で仕事をしつつもユウはヨーコを取り戻そうとする。
……ってホント分かり難い話だなwwww
いや、この分かりにくさが面白い部分ではあるのだけれども。
ともあれ、本作のポイントは何と言っても「愛」だ。
主役三人は父親の歪んだ愛情によって人生を狂わされ、カオリはユウの親父を押し倒したり車をぶち当てたりしながら愛を叫ぶ。
コイケはユウに自身を重ね合わせて偏執的で歪んだ愛情を抱く。
そしてユウは母に誓った聖母マリアをヨーコに見出して救おうとする。
「愛のむきだし」という言葉が明確に使われるのはカオリに関してだが、コイケもユウも、そして最後にはヨーコも愛をむきだしにして相手にぶち当たる。
「愛」とは色々な場面でよく使われる言葉だが、どのようなものか自覚的な人はあまり多くないと思う。
それは社会性に覆われて常識という殻に押し込められているからではないか。
ところがこの映画では「むきだし」なのだ。
だからこそ狂的であり破壊的であり、時には社会の倫理や人間そのものすら薙ぎ倒してしまうほどの強力なものになりうる。
そして同時に、破滅からの救済にもなれる。
たといわたしが、人々の言葉や御使(みつかい)たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢 (にょうはち)と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、 いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。 しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろ う。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
出典はこちら 。
訳は違っているだろうから、言葉遣いは異なる可能性アリ。
これは劇中でユウにヨーコが語る「コリント人への第一の手紙」である。
この時点で、ヨーコは完全に新興宗教に捕らわれており、無理矢理ユウが連れ出して洗脳を解こうとしてもまるで聞かない。あの新興宗教じゃなければ仏教でもキリスト教でも良い、と語るユウに「あんたは何も(聖書も)知らない」として引用する聖書の一節だ。
確かにここで語るユウの宗教観は、やや偏っているようにも見えなくもない(もちろん入会の経緯がコイケの仕業と知っている部分はあるにせよ)
だからヨーコの指摘は必ずしも大きく間違っている訳ではないのだが、同時に此処を引用してしまった事自体を彼女は省みては居ない。
ユウのヨーコに対する行為、それはこの引用の文言そのものであるということを。
彼はヨーコの為に忍び、信じ、望み、耐えた。
そしてこの時のヨーコに信仰はあっても愛が無いということを。
(サソリの事は好きだが、サソリ=コイケだと思っていて本当の相手を知らない)
いつまでも存続するものは、信仰と 希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、愛である
まさに此くの如く、信仰を超える物は愛なのだ。
少なくとも、この映画の中に於いては。
寛容という部分については監督自身が「寛容と言っているのに不寛容になってしまう部分が面白い」というような事を語っているので愛情論として別のエントリで語るとして、映画の中で重要なのはユウの行動動機は愛に他ならなかったということだ。
そして一見ユウを苦しめるだけの存在であったかのように見えるコイケも実に奇妙だ。
ユウの全てを奪い、彼自身を誘惑し、彼の心を壊して、自害。
正直エンターテイメントとしてはユウに罰される感じでも良かったのではないかと思うのだが、やはりこの辺りは色々と何かありそうだぞ……という気はする。
確証はないが。
幾つか考えられる仮説として、やはりコイケはユウに強い思い入れ(恐らくはこれも愛と言うべきだろう)を抱き、自身と同じようになって欲しかった……と考えるのが一番スタンダードかなぁと。
そして壊れてしまった姿を見るに嬉しさと同時に悲しさが去来した、という感じだろうか。
またどういう状態であってもユウの愛が常にヨーコへ向かっているというのもあったやもしれん。
この辺りは幾らでも考察出来そうだが、上記二つが一番妥当かなぁと。
そして心を壊したユウにみせるヨーコの「むきだし」
非常にバカバカしくも見えるが、あの愛に対するこの行動だからこそ感動的に映る。
だからやっぱり、この映画は愛の映画だ。
どっかの感想で
「愛なんて最後にちょっぴり出てるだけでみんな騙されてる」
という意見があったが、そりゃ
登場人物のメチャクチャで破壊的な行為の数々が何に由来しているか気付いてないだけか、
もしくは「愛」というのを普通の恋愛映画のそれと同一視しているか
ってだけじゃねーの?
「愛」の衣は厚いものだ、それ自体を自覚していないと取り払うどころか気付くことすら難しいかもしれない。
キリスト教の愛というのも、必ずしもむきだしとは限らないと思うが、この映画の「愛」に一脈通じるモノはある。
だからヨーコはキリストに傾倒したし、ユウも自らのマリアに生涯を捧げた。
「愛」はヤバイ、マジヤバイ。
だから僕らは「愛」に常識とか社会性とかで衣を作り、その姿を隠す。
衣を剥ぐと、人は愛のままに時には社会を脅かし、時には人を救ってしまう。
でもきっと、それが「むきだし」ってことなんだろう。