Angel Beats!考察 その2 ~麻枝作品とヨブ記~ | リュウセイグン

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なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

そんな訳で、早速考察その2に取りかかります。
正直言うとこちらを優先したかったのですが、普通の考察が長びいたので分割致しました。

前エントリでも触れたように、僕は麻枝作品(Key作品)が好きではない……有り体に言って嫌いです。
この奇妙な展開は一体何なんだろう? この現象はこう解釈されていたりするけど本当だろうか?
ABはまだ序盤なので判断は起きますが、他作品でも作中で明示する事が余りにも少ない為に奔放な推測と解釈を許す変わりに、どれも「これだ!」と言うほどの確信も得られない。
ファンの中ですらそういう状態が見受けられます。
シチュエーションに感動はしているのは確かですが、ファンの記述を読むとその解釈はバラバラで、殆ど神学論争の感すらあります。


だからこそ人気もあるのかもしれませんけれど、僕のような人間はそこに「奇跡で救済とか、展開重視でやってるんじゃないの?」という疑念が生じてしまいます。お話として、人間ドラマや感動ドラマは考えているけどバックグラウンドがどれほどしっかりしているかは心許ない。そんな気持ちになります。


ちゃんと観たのはAIRだけですけれども、アレも「全部観れば価値が分かる」と言われ全部観れば「分からない奴はバカ」とか今度は「ゲームをしろ」などとと言われる始末でした。
アニメで6時間弱を費やし徒労感を持った人間に、何十時間も掛かるゲームをすれば分かる……という態度はちょっと戴けません。アニメは自分の意志で観たのだから仕方ないにしても、作品の評価を高める為にそれ以上の苦行を押し進めるのは如何なものか……と感じました。
そんな訳もあって他の作品に触れることもなく、クラナドは遠ざけていたのですけれども、ABは一般的な注目作でもありまた意欲作だという話なので視聴する事になった訳です。
死んだ世界なら、単純な意味で死んだから感動という手は使えない訳ですしね。

ABが楽しいかと言われれば楽しくないのですが、面白くなるかもしれないし、最近の冨樫の教え(つまらない作品を観て自分なりに改善するのが物語作りに繋がる)もあることですし、全部観ようと思います。

そんな中、少し面白い事を発見しました。
切っ掛けは懇意にして頂いているピッコロさんのブログに寄せられたコメント です。
麻枝さんはOPなどに展開を予期させるような歌詞を織り込むんです……というような物でした。
そこでクラナドって確か……と、直接観た訳では無いにせよ記憶の残滓を辿りました。

ある女の子に惚れて付き合ったけど出産時に死んじゃって、その後子供も死んじゃって、
でも過去に戻った時に同じ女の子と出会う道を選ぶことを決意すると
女の子も娘も死ななかった人生が訪れた


感動した方には申し訳ないですが、ザックリ纏めるとこんな感じだと思います。
(光の球とか入れると分かり難くなるし繁多なので省略)
最後の決断部分とかその結果とかに色々言いたくもなりますが

女の子と付き合うことで自他に不幸や悲しみが訪れると認識していても、
それでもその子と一緒に生きることを選んだ

ここがキモだと思う訳です。
で、これを思い出した時に僅かな既視感を覚えたのですね。

あれ? 俺……この話知ってるぞ?

クラナドは観てませんしやってません。
でも明らかにこういう話を知っている。

なんだったか……そう、それで辿り着いたのが


旧約聖書『ヨブ記』


だった訳です。

ヨブ記
ウィキペディア・概略掴む用

松岡正剛の千夜千冊・旧約聖書『ヨブ記』
ヨブ記の感想・より詳細な内容用


ヨブ物語
荒川教会の牧師さんの解説・最も詳細だがメッチャ長く読むのは骨。
キリスト教徒じゃないと掴みにくい部分も多い



リンク先を参照して頂ければ良いのですが、敢えて語るならばヨブ記とは

後ろ暗いことが何一つ無いにも関わらず
神によって苦しみを与えられた男の物語

です。
サタンが「神の愛する篤信者・ヨブといえど、実のところは利益があるから神を信仰しているのだろう」
と語るので神はサタンが本人の命を奪わないと言う条件でヨブを苦しめることを許可します。
そこでサタンはヨブの財産を失わせ、子供やそのその嫁までも死なせてしまいます
しかしヨブの神に対する侵攻は揺らぎません。
そこでサタンはヨブを病気にして苦しめます
当初は神に対して疑いを抱いていなかったヨブも、神を疑い始め見舞いに来た友人達と神についての論争を始めます。
友人達は「苦しみを受けたと言うことは、ヨブが罪を為しているのだ」と言います。
しかしヨブは「私に罪はないけれども、神は私を苦しめるのだ」と語ります。
常識的に考えるならば友人の指摘は真っ当至極というべきでしょう。

友人の言葉が間違っているのならば「神は正しい者をすら苦しめる存在」であり得るからです。

ところが事象のみを追求すれば、サタンの言葉を受けて愛するヨブを苦しめる許可を出した神はまさにその通りの存在なのです。当然、此処には神学上の様々な解釈がある訳ですが、その辺りは上記にリンクした本職のヨブ物語解説をお聞き頂くとしましょう。

最終的にヨブは神と対面し、神を疑ったことを恥じます。

僕はヨブ記を山本弘さんの『神は沈黙せず』にて触れたのですが、山本さんは誤訳という解釈(この説を信じているとは限りません、小説のネタとして用いただけという可能性もあります)を加えて「ヨブが神を弾劾し、神に勝利した物語」として解釈します。信憑性は兎も角、ヒューマニストの山本さんらしい考えです。

ただ色々触れてみると、キリスト教的な観点からのヨブ記の重要さは「苦しみに喘ぎ、世俗的な利益や明確な神の言葉がないにも関わらず信仰と神に対する愛を貫き通す」点にあることが分かります。
実利が得られるから信仰するのではなく、むしろ苦しい目に遭ったとしても、神の真意が図りがたくても「神が神であるから・正義が正義であるから」それを信じ愛するところの姿を示すことが尊いとされるのです。
信仰心が無い人間にとっては奴隷根性というか、尻の座りが悪い部分もあるかとは思います。

けれども、これを人間レベルの愛で解釈してみたらどうでしょう。
キリスト教徒が聞いたら怒りそうですが、神を異性に置換してしまうのです。

一般的な恋愛観では相手の容姿や富裕さ、性格などで決まるでしょう。
しかし愛情の深い部分というのはそれだけでは定まりません。
一度愛してしまった人間が例えば醜くなったり貧乏になったり、性格に困ったところが出てきたらどうか。
或いは、愛する状況自体が苦難に満ちあふれ、相手の心がしれない状況に陥ってしまったらどうか。
もちろん殆どの人は嫌いになったり、諦めたりするでしょう。

けれど苦難に満ちあふれ、愛することが本人に利益よりもむしろ悲しみをもたらす者だとしても相手を愛する人は存在するはずです。

(ここでストーカー話になってしまうと色々とズレる部分もあるので置いておきましょう。
ストーカーもそういう傾向の部分はありますが、同時に自己愛に依る物も大きいからです)

受け入れやすく分かり易い例として『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』でも使われた楽曲アメイジング・グレイスの作詞者の話を引いておきます。

ジョン・ニュートンの物語

ジョン・ニュートンは一目惚れをした少女の為に、様々な苦難に遭います。
何度も引き離され、その度に求め、失敗します。
彼の悩みの原因は偏に初恋の少女によるものです。
普通の人間なら何処かで愛することを諦めるでしょう。そちらの方が余程楽なはずですから。
愛することを諦めれば普通に船員として暮らせるし、もっと条件の良い女性に出会えるかもしれません。
更に少女は最初からジョン・ニュートンを愛してくれた訳ではありません。

相手を愛することで苦労を負い、相手の心が分からないにも関わらず、彼は初恋の人を愛し続け、結果その愛を全うするのです。

これはキリスト教としては卑賤な例えになってしまうかもしれませんが、ヨブ記に通じる想いの強さがあります。
ちなみにジョン・ニュートンも、その苦難の人生から無神論者に近かったようですが、その自分すら救われたという思いから信仰心を強くしアメイジング・グレイスを作ったそうです。


此処まで長々とまどろっこしい文章を読んでくださってくれる方は、何の話か忘れていらっしゃるかも分かりませんから元に戻します。

クラナドの話ですね。

クラナドに於いて主人公が見せた姿勢は、まさにヨブが神に示したものジョン・ニュートンが初恋の女性に示した物と相似です。踏み込んで言えば、自分のみならず相手にすら不幸を負わせるにしても、共に生涯を全うすることを願ったのです。

思えば『AIR』にも似たような部分があったのではないでしょうか。
苦難を敢えて受け、肯定することで、脱却するという構造。

翻って考えるに、『Angel Beats!』にも同様の部分が見受けられます。
そう、今のゆりは神を疑うヨブから一歩進んだ、神を呪うヨブなのです。

これが果たして回心の一歩手前として描かれるのか、
それとも本当の意味で神への反抗者として描かれるのか


前者であれば従来の部分を踏襲していると言えるでしょうし、後者であれば自覚しているか否かにかかわらず新境地と言えるのかもしれません。

まぁ、それを私がアニメとして、物語として面白いと思うかは別の問題ですがw
個人的にはヨブの立場は信仰者として大した物だと思いますが、やはり神の立場などに疑義を抱きたくなります。
また麻枝作品の奇跡の起こし方も多様な解釈によって深みを与えるというよりも御都合主義的な側面を強く感じてしまいます。

この感慨はヨブ記との関連性を見 出す前も、後も同じです。

しかし麻枝作品に通底する要素として、ヨブ記のような物語構造が見え隠れしているのはとても興味深く感じました

麻枝作品に限らず物語の源流は聖書にありという話も聞きますし、聖書に限らない神話体系に原型を見出す事もあるでしょう。そういう部分から様々な物語を観ると、アニメそのものだけを評するのとはまた違った物が見えてくるかもしれません








※ 注
今回のエントリは内容の関連性からキリスト教っぽい部分が多分に出てきますが、僕は興味を覚えこそすれ信じるつもりはありませんので悪しからず。