私的物語評論~ランキングに関わって~ | リュウセイグン

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なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

ランキングを観て思うのは、改めて世間のメインストリームから外れているなぁという認識でした。
固定ファンが多そうな『君に届け』『BASARA』は共通するかもしれませんね。
宙まには微妙だろうなァ。
『BASARA』『戦う司書』と迷ったんですけど、秋に掛かるのが多すぎたんで止めておきました。

他人と違うのを了解した上でやってるから、後ろめたいと言うよりもむしろ

「全然違うだろ、ザマーミロ!」

みたいな気分ですけどね、えぇ。

僕は、多分多くの人に比べてアニメに対する評価が物凄く厳しいと思います。
ブログなんかやってると、そういう態度が相手を困惑させる時もあるでしょう。
しかしながら、僕は僕の求める物を希求するだけですから、それに見合う物であれば誉め、見合わない物であれば怒るだけです。
これは極めて自己中心的な態度と言えるでしょう。
しかしこと僕にとっては、至極当然です。
物語を観る時、それは他人にとってどうかが大事なのではなく、自分にとってどうかが大事なのですから。
もちろん筋の通った他人の意見も無下にはしませんけれどもね。

これ自体、やはり色々と他人から言われる考え方ではあるでしょう。

しかしながら思うんですよね「あんたらは違うのか?」と。

誰かが何かを面白い、という時、それは何かに比しての事です。
それは自分の人生の1シーンだったり、日常生活だったり、他に観た映画だったりアニメだったり小説だったり新聞の社説だったり、色々です。
何かを面白いと考える時、それは実のところ「面白くない状態」を想定し、それと比していると言えるでしょう。
何を以て面白いかは個々人で異なります。
よってその感覚は、あくまで貴方だけの、自己中心的な感覚なのです。
共有しているように感じているのは実際の所、偶々か、気のせいです。
こういう態度に作品の面白さを見出すのが良いとかなんとか、言う人もいるでしょう。

でも、それだったら

「30分間真っ白な画面を見てるだけで何か楽しめるの?」

それでも楽しめたとして、別のちゃんと動いたり喋ったりしている何かと同じように楽しいか、それはまた違うんじゃないでしょうか。何を面白いと思うか、何を面白いと思わないかは人それぞれで、要するに程度の差なのです。

だから、個々人の感性は共有不可能で、同じ物を観ても面白く感じたり詰まらなく感じたりする。
ここに於いて「面白い」の領域をどう扱うか、という問題が出てきます。

全部面白いからいいじゃん!

それは確かにそうかもしれません。それも一つの価値観。
けれど同時に、全て面白いというのは全てフラット化するという意味でもあります。

自分の中で10点満点中、10点を付けたい作品を「面白かった」と誉める。
でも5~6点ぐらいでも「面白い」で良いよね、3~4点でも「悪くない、面白い」1~2点でも「面白い部分はある」
こういう事を繰り返すとどうなるか。
10点の「面白い」が相対的に平坦になってしまう。
これは言葉上の問題ではありますが、様々な作品にそういう態度で接することで自らの感性が鈍っていくでしょう。
10点でも3点でも、同じ言葉のボックスに入れてしまえばいい、という安易な考え方は視聴態度を安易にします。
よって「全て面白い」は「どうでも良い」と極めて近しい、というのが私の持論です。
僕にとっては、そんな褒め言葉は無責任であり、全部肯定は視聴者の堕落と同義です。
同時に、何か創作をしたいと思っている人間にとっては致命的
作品の善し悪しを客観視出来ていないんですからね。
そんな人に面白い物は作れない。
僕は商売としては兎も角、創作をしてみたいと思うタイプの人間ですから、そのハードルを上げるのは義務だとすら思います。

自己中心的ではあるけれども、何かに物語的価値を見出し、その価値観を選び取っていくのが僕のやり方です。
その価値観が合っているかどうかは、結局自身でケリを付けなければならない
面白いに絶対的基準はないんだから、自ら創り上げるしかない。
その価値観への責任も自分で負う。だからこそ「面白い」「面白くない」を選別する。

同時に、選別したからと言って単に「面白い」「面白くない」とだけ言っていれば良いという物でもありません
文章がこんな感じなので勘違いされやすいですが、僕は必ずしも理詰めで物語を観ている訳じゃない
むしろ感覚が先に引っ掛かって、その感覚を語る為に言葉を選んでいるからこうなるのです。
感覚そのものは自己中心的です。それは先ほども言いました。
しかしそれをブログで開陳する以上、「面白かった」だの「面白くなかった」だのだけで語るのはあまりにも浅薄です。
そこで、感覚を説明する為のツールとして言葉と論理が持ち出されて来る
もちろん、言葉も本来的に感覚そのものを共有できるわけではありませんし、遍ねく論理は詭弁です。
同じ物を観ても「○○だから良い」「○○だから悪い」と互いに違う感覚を持つことは充分あり得ます。

そして「正しいからそちらを取るべき」という論理の基本も、「論理的に正しいからと言ってそちらを取る必要はない」という考えによって容易に否定されます。一般的なルールがそうなっているだけで、実際的には正しくても、選ぶ必要はないし、正しくなくても選んだって構わない

ただ、ギャラリーに正しいような事を言っている方を選んだ方が良いんだろうな、という印象は与えられます。
説得力があるな、思い込ませることは可能です。
それは他人に自分の価値観を認めて貰うことでもある(錯覚である可能性は常に存在しますが)

その印象論や説得力こそ、このインターネットという言語を基本として意志疎通する空間には重要です。

だからこそ、批判も称賛も論理で語る訳ですね。

また肯定にせよ否定にせよ、作品をてんで理解せずに語るのは、それこそ滑稽。
だからこそ、下らないと感じる物語でも理解しようと務めます。
ダブルオーでも化物語でも、自分が物語に入り込んだ上で、その物語を考えた結果を提示する事にしているのです。部外者でいるつもりは全然ありません。
僕から見て否定するだけではなく、物語の中から見て考えつつ言う事にしています。
そしていざとなれば、それを僕の中で解消させられる物語を創る。
そうやって出来上がった物が全ての人に面白いとは全く思いませんが、それを見れば選び取った価値観と、作品への理解くらいは考慮して頂けると考えてのことです。


近年多くに持ち上げられている作品は、僕にとって誉めるに足りない物ばかりです。
もちろん大衆性も大事だとは思うのですが、阿りすぎて歪んでいるなァというのが強い。


邦画で売れているのもトンチンカンな作品が多い(もちろん素晴らしい作品もあります)けれど、実質的に大抵のアニメも同じです。
一方、洋画では売れていないけれども映画好きに明確に評価された作品は、かなり好印象のものが多い

映画好きにも色々居ますが、好きな映画を教えてくれそうな映画好きは結構居ます

なのにアニメでは、評価されている作品が全然面白くないことがしょっちゅうです。
というか、売れている=評価されている、みたいな図式が多々あります。
ブロガーやら、評論家の中でもそういう図式がある。
別に大衆性そのものを否定している訳ではありません。
ただ個人として考えるに、売れていて面白い作品もあるし、面白くない作品もある、ついでにどちらかというと、一般的に売れている作品はあまり面白くない……それだけです。

映画では、特殊な嗜好でもガイドになりそうな人が居るのに対して、アニメでは勝ち馬に乗ることばかりが優先されているのです。
だから僕は評価する主体としてはまだまだ至らないし、青臭いですけれども僕に似た嗜好を持つ人(かなり特殊でしょうけど)へのガイド的な役目になれれば……との意味でもこういう風な書き方を続けるつもりです。

エリンみたいな深く考えられるような作品はそれに相応しい考察を加え、マジンガーやミラトレみたいな頭のネジがすっ飛んだような作品も笑いながら大喜びし、化物語やレールガンみたいな売れている割にツッコミどころが多すぎて過大評価に思える作品には容赦なく斬り込んでいきます。


こういった態度は全然一般的では無いでしょうが、そもそも考えるんですよ。


右向け右で、同じような作品を同じように誉めてる
似たり寄ったりのアニメブログって、やってる意味あんの?


個人としても、ブログとしても。
ここは特殊ですが、それ故に意味を持ち得ると思っています。
自己満足度も高いので、現時点で本当に意味があるかと問われれば少々言葉に詰まりますけれども。
なんにせよ、この特殊性は僕の枷でもあり、覚悟でもあるのかもしれません。