(ウチは基本的にネタバレ全開なので注意してね!)
やっぱりババアは最強だぜ!
というのはあまり正確な感想じゃないんだけどw
兎に角『母なる証明』(原題『母』)を観てきたので感想を書くよ。
あらすじ
知的障害のある子供(つってもいい歳)が殺人の嫌疑を掛けられた為、母親(固有名詞は敢えて付けてないらしい)がそれを晴らすべく東奔西走する。
という話。
これだけならば比較的よくあるテーマだと思う。
しかしそこは『殺人の追憶』で容疑者(候補)に跳び蹴りを入れ続け、『グエムル』で怪獣と一般人のガチバトルを描いたポン・ジュノ監督、一筋縄ではいかない。
なんと、息子は本当に人を殺していた!
な、なんだって~!
いやまぁ「バカ」と言われるとキレて暴走するんで、手元にあった石をぶん投げたら後頭部にストライクフリーダムしたっていう話だったんですけどね。
正直それまで息子の悪友が「被害者の身辺を調べてみな」とか言ってた思わせぶりな展開はなんだったんだっていうwwwww
ある意味、身も蓋も無い話だけど、要するにこれが判明したというのは一人だけ目撃者が居た。
ホームレスみたいな人が。
だから母親がそいつを殺して、住んでた場所ごと焼き払う。
ここまで描いてしまうのが、韓国映画の凄いところだろう。
日本人は基本的に倫理観や合理性を持ち出すので描いても説得力に欠けるテーマだ。
もちろんネットのブームに乗って韓国批判をブチ上げてる訳じゃない。
むしろその逆。
俺らにはこういう作品は作れないなっていう意味合いだ。
案外日本の作品は、こういう部分を描く時に自己肯定的に捉えてしまったりする。
映画にもなった伊坂幸太郎の『重力ピエロ』はまさにそう。
もちろんシチュエーションは全然違うが、実はその展開の組み方からして、考え方が違うのがよく分かる。『重力ピエロ』は殺人対象を悪人として、さらにそれを殺した家族を通報せず、それを肯定的に捉えて終わる。というより、物語そのものが殺人を肯定出来そうな方向性として仕組まれている。
だから、相手を殺す事に対する禁忌は限りなく脱臭されている。
『母なる証明』は殺人対象は良くないこともやっているが、結局は無辜の少女で、殺してしまったのは明らかに息子に責任がある。
母親はそれを通報しないどころか、隠蔽する為に殺人を行う。
この行為は決して肯定されるべきものではない。
だから最後に母親は「嫌な記憶を消すツボ」をに鍼治療を施すことで、その記憶を消す。
肯定されるべきではない殺人を犯してしまうのは、その愛情が法令や禁忌などの範囲を超えうる物だからだ。
ポン・ジュノ監督はこの「異常性」を把握した上で、物語としては発覚させない結末を取るが、息子に対する愛情を肯定した言い訳もしないし、そういう物語作りもしない。
倫理的に間違った行為だからこそ、それを越える「愛情」として語れるのだ。
だから実際はこの「狂気という名の愛情」を限りなく突き放した状態で撮っている。
「家族の復讐の為に殺人する、もしくはそれを看過すること」
と
「家族の犯罪を隠蔽する為に殺人を犯すこと」
は家族を大事に思うが故の殺人という意味合いに於いて限りなく紙一重の行為だ。
それに対するエクスキューズとして相手を悪人に仕立て上げ、更に罪を暴かないのを家族愛による美談として収めてしまうか、息子の殺人の罪を隠す為に殺人を重ねさせて、その家族愛を狂気として描くかでは客観性のレベルが違う。
『重力ピエロ』自体は原作・映画共に結構良く出来た作品だと思う。が、そのテーマを見据える冷徹な目を考えた時、僕は『母なる証明』に軍配を上げたい(ただ『母なる証明』の中盤はいささかダルく感じたのは確かで、全体を比べるとやや迷う)
同じく韓国映画の『チェイサー』でも主人公の追走劇は殺人犯と紙一重の狂気として描かれる。
こういったクライム系の韓国映画を観ていると、つい「よく言われる国民性ってのがあるとすれば、感情と行動が直結しやすいのかなぁ」と感じてしまう(別に批判しようとは思わない。それは単なる違いであり、彼らにとっての常識だろうから)のだが、それを映すカメラは物凄く冷静で、時にはコミカルに笑いを取らせ、時には突き放して慄然とさせる。
この案配がとても上手い。
当然、日本映画には日本映画の良さがあるので模倣してほしいとは思わないし、第一同じ事をやっても「合わない」だろう。ただ、これが隣国の文化なんだと率直に認めることで、切磋琢磨していける関係になればいいとは感じる。
やや話の逸れた感もあるが、この映画は母の唐突な踊りから始まり、母の踊りで終わる。
彼女は確かに異常なのかもしれない。
しかしその愛情は、多かれ少なかれどの母親も持っているのではないか。
だからこそ
彼女に固有名詞は存在せず、
「お母さん」・「おばさん(つまり誰かの母親)」
と呼ばれるのだ。