





2
六月四日、日曜日。
僕は神原駿河との壮絶な殴り合い、というか一方的な暴行から生還し、その傷も漸く完治して、更には頭を悩ませていた実力テストも一段落し、僕は精神的解放と健康的肉体の自由という二重の素晴らしさをつつがなく満喫していた。とはいえ、あの傷から一週間余りで完治するなどという状況は、聊か健康に過ぎる程で、改めて自らの異常性を自覚すると、少しばかりの感慨が、無いではなかった。
今日、外出しているのは八九寺と出逢った時のように後ろ暗い理由ではない。僕には確固たる目的があった。それほど大したことでは無いのだが、忍野メメに簡単な用事を頼まれていたのだ。
忍野は、しばしば僕に用事を頼む。さほど難しくはなく、どこどこへ行って何を持って来てくれとか何を置いてきてくれ、といった類だ。面倒な時もあるのだが、一応彼は僕の恩人であり、手数料の五百万も焦げ付いたままなので断るのも気が引ける。
忍野もその辺りは心得ている様で、
「お使い分は、大目に見てあげるよ」
などと言っていた。
多少の後ろめたさは感じるものの、一介の高校生であり見栄を張っても吸血鬼もどきでしかない僕に五百万は難物だ。理由が理由だけに親に相談する訳にも行かず、当分支払いは困難を極めそうだった。だから、渡りに船とばかりに、ある程度は積極的に手伝っている。今日もその一環で、近くの寺院に灰だか何だか、よく分からないものを撒いてくるように言われた。灰なんてものは、どちらかというとキリスト教の領分なんじゃないか……という考えも脳裏をよぎったが、何せ向こうは専門家、こちらはずぶの素人であり、こんな浅薄な思い込みは、むしろ余計かもしれなかった。
幸い、忍野の示した寺は、阿良々木家が、少し前に墓地を購入した所で、何度か訪れた事があった。むしろ、その寺院に墓が隣接している、と表現した方が正確だろうか。
従って、八九寺真宵の家を求めて右往左往するような事態にも陥らず、その辺りに適当に灰を撒いて(但し人が居るところなので、あまり騒ぎにならないよう手早くやった)近道である、阿良々木家墓地のそばを通り抜け、さっさと帰ろうとした……その時。
何かが、僕の視界をかすめた。フッと何気なく頭を巡らして、目の端に一瞬引っ掛かったような感じで、僕自身も自分が何に反応したのかが理解出来なかった。
ゆっくりと、さっきと逆方向に、振り返る。
女性だ。
幼女でもなく、少女でも老女でもない。それは、女だった。
黒い着物を着て、たった独りで佇み、顔を覆っている。その為に、造作は伺えないが、手の白さと、すらりと伸びた姿勢とが、その女性の美しさを想像させた。
でも、それ以上に、僕の中で何かが訴えかけていた。不思議な感覚。初めてなのに初めてじゃないような……既視感。
そうだ、前にも殆ど同じような光景を見た事が……
「あら? いたたまれずにこの世を去った死者の怨念が具現化したのかと思ったら、阿良々木君だったのね、ごきげんよう」
と、そこで当の女性とは逆方向、つまり僕の背後から聞こえた、この無体・無情・無礼の三拍子揃った挨拶にも既視感があった。
「せ、戦場ヶ原か」
戦場ヶ原ひたぎ。蟹に憑かれた少女、心に永久東土を持つ女。
それ以外には居ない。ていうか、こんな挨拶する女が何人も居たら物凄く嫌だ。
「この前から休日によく逢うこと。阿良々木君は、休日はいつも徘徊ばかりしているのね。それとも私のストーカーかしら?」
「まだ二回目だろ! それに地域放送で服装とかを手掛かりに探されちゃう人みたいに言うな!」
「それもそうね。阿良々木君みたいに若輩者の若造な癖に暇なだけで自堕落なままやる気も建設的な目的すらも無く自主的な行動の筈なのに主体性の欠片も無いまま不審者よろしく近所をうろつき廻る行為と、一生懸命生きてきた方々が、やむを得ない事情で外出されるのを混同しちゃ失礼ですものね」
「僕に対しても失礼だよ! お前こそ何でこんな所に居るんだ? 墓参りか?」
「愚問ね阿良々木君、貴方の居るところに私が居るんじゃないの。私が居るところに貴方が湧いて出るのよ」
「僕は虫か何かなのか?」
「その見解に矛盾は無いわ」
言い切った! この女、自分の恋人に虫って言い切った!
「僕は忍野に頼まれて来ただけだよ。ちゃんと目的もある」
「あら、それなら奇遇と言えるかもしれないわね。私は町を怪しく蠢く不気味な生物があんまり珍しくて追跡していたらこんな所に来たんだけど……どうやら阿良々木君だったみたいね」
「それは奇遇じゃなくて作為だろ! 人をヒバゴンみたいに言いやがって! あとストーカーもお前だ!」
「ヒバゴンなんて言って無いじゃない。そうね、強いて言えば……ゴケミドロ?」
「悪化したよ! 確かにアレも吸血鬼だけど!」
「凄いシンクロ率ね、阿良々木君が四〇〇%越すとああなるのかしら」
ない。それはない、断じて……大丈夫、大丈夫、大丈夫だよ、ねぇ?
「全く、折角興味が湧いたのに阿良々木君だったなんて、人生を棒に振ったわ」
「人生!? 僕を追いかけた損失は人生単位なのか!?」
「阿良々木君の後塵を拝したなんて、この先どんな僥倖に恵まれようとも取り返しのつかない汚点だもの」
じゃあ、何でそんな男と付き合ってるんですか戦場ヶ原さん……
「決まっているわ、愛しているからよ」
………………。
戦場ヶ原の恐ろしいところはここだ。ダイヤモンドダストみたいに冷たく痛めつけるくせに、突然レールガン並の速度で一直線に好意を表明する。
どの道、僕の心が安まらないのだけは確かだった。
「だから、可愛さ余って、肉野菜炒め」
ぶす。
異音と共に、その言葉が、その言葉と共に戦場ヶ原の指が僕の両目に突き刺さる。
「いってえぇぇぇぇっ! 僕は再生出来るけど、痛覚はちゃんとあるんだぞ!」
ついでに言えば、構造のせいか、眼球の再生には時間が掛かる。形は戻っても、焦点などを合わせるのはなかなか大変だ。今回はそこまで深く突かれて無いから大丈夫だと思うんだけど……。
「ていうか、どうしてお前は眼球攻撃を好むんだ」
思えば、最初に忍野の所へ連れて行った時に一度に神原の話題を出した時に未遂が一度を加えれば、戦場ヶ原には都合三回も目潰しを行使されている。仏陀だってそろそろ怒りかねない頻度だ。
「急所だからよ、追撃もし易いしね」
なるほど、視覚を奪えば絶対的に有利……ってそういう事じゃねぇ!
「一番の問題は、どうして理由もなく攻撃してくるのかって事だよ」
嘆息と共に戦場ヶ原は答えた。
「困ったわね、自覚がないの? 阿良々木君。貴方が罪を犯したからよ。幾ら私でも理由も無しに恋人を攻撃なんてしないわ?」
恋人じゃなければ無差別に攻撃するのか……というツッコミは置いといて。
「罪? 何の事だ?」
「ダメねぇ……いいこと? 阿良々木君。さっき女性を見ていたわよね?」
「あぁ……まぁな」
まさか……。
「姦淫の罪、というのはキリスト教の大罪の一つだけれど、聖書のマタイ伝第五章第二十七節から三十節にはこうあるわ。
『「姦淫するなかれ」と云へることあるを汝等きけり。
されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懷きて女を見るものは、
既に心のうち姦淫したるなり。
もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、
五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入られぬは益なり
故に阿良々木暦の眼を失わせるべし』
要するに淫らな気持ちで女の人を見たらそれはもう姦淫の罪で、そんな汚い目は抉り捨ててしまった方が地獄へ行かなくて済むから得だって事なのよ。だから……ね?」
「ね? じゃねぇよ! お前は僕を貶める為に聖書まで持ち出すのか……ていうか、最後のは明らかに勝手に付け足してるだろ! サミュエル・L・ジャクソンかよ!」
改変にしたって、聖書に21世紀に生きる日本人の固有名詞を差し挟むのは幾ら何でもやりすぎだ。
「流石は阿良々木君ね……細かいところにもツッコミが行き届いてる……恐ろしい子」
「それより、どうして僕が淫らな気持ちで視ているとか言い切れるんだ?」
「抱いていなかったとでも言うの?」
「質問に質問で答えるな!」
まぁ、綺麗だろうなってくらいは考えたけどさ。
「疑わしきは罰したまでよ」
「魔女狩りかよ! 推定無罪はどうした!?」
「失礼ね、根拠はちゃんとあるわ」
「言ってみろ」
「だって阿良々木君だもの」
「淫らな事しか考えてないと思われてる!」
「やや不正確ね、存在自体が淫らなのよ」
淫らは阿良々木、阿良々木は淫ら。
戦場ヶ原の中では、それが等価交換並の、世界の真理だと思っているらしい。
でも、僕自身が淫らだったら結局目だけ捨てても意味無いような……あぁっ、いつのまにか乗せられているっ!
「言っておくけど、お前も考え違いをしてるぞ。僕が気になったのは」
そう、本当の意味で気になったのは。
「あの人に、見覚えがあったからだよ」
そう、ちゃんと思い出した。顔は殆ど見えなかったけど、それでも分かる。
あの女性と僕は、確かに逢っていた。
中学二年生の夏、あの、まだ何も知らなかった頃に。