ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破 マジメなネタバレ感想 | リュウセイグン

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なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

良いヱヴァであった
ただしエヴァではない






今更ですのでネタバレなどと断り入れる必要もないと思うのですが、一応。
忌憚のない意見を口にしてしまうと





凄かった


でも


戸惑っています





喩えて言うならば

中学時代変わり者で取っ付きにくかったけど、凄い敬意を払ってて仲の良かった級友がいた。

しかし中学卒業と同時に疎遠になり、全然会っていなかった。

13年ぶりくらいに再会したら、すんげーフレンドリーで人付き合いの良い人間になってた


良い人になってくれたのは嬉しいけど、それお前のキャラじゃないだろ……という。


色々な人に話していますが僕は「エヴァを卒業した人間」です。
昔は激しく傾倒していましたが、旧劇場版のパンフで鶴巻さんが


「エヴァはこれで終わりです。だから皆さんも別の楽しいことを探してください」


と書いていたのを文字通り受け取って、それっきり僕の中のエヴァ熱はすっかり引いてしまったのでした。
だからかなり客観的にみている部分があります。老後の余生というか、あの頃を思い出すために観ている観じに近い部分があるかもしれません。

そう言う意味では『序』は魅力的な作品でした。

旧来の話をなぞりつつも、登場人物に微細ながら前向きな変化が生じている。
ラミエル戦でのシンジ君はまさにその象徴でした。
今までのシンジ君でありながら、ミサトさんや綾波との関わりによって行動が変化しているように捉えられたからです。

しかし今回はどうだったか。確かに全体的に前向きな方向へと流れが進んでいるように思えました。
新キャラであるマリさんが一番端的にそれを表していると言っても過言ではないでしょう。
ほかの登場人物はどうかというと、彼ら・彼女らもまた様々な箇所で事態を打開しようとする形として描かれていました。

僕の好みから言えば、TV版~旧劇場版のキャラよりもこういった人々の方が好ましいです。
僕は今川泰宏監督が大好きで、新劇場版・破に関して言えば物凄く今川っぽい、もしくは(やはり大好きな作品である)グレンラガンなどに近いものを感じました。

だから肯定してしかるべきなのでしょうが、それを単純に評価できないところにエヴァンゲリオンという作品の持つ特異性が顕われています。
一言で言うならば



これ、エヴァじゃなくね?



って話です。
TV版シンジ君の台詞に(『序』でもありました)



なんでこんなものに乗ってるんだろう、人に殴られてまで(取意)



というものがあります。
「妹を傷つけた」と、トウジに殴られてもエヴァを動かさなければならないシンジ君が自虐的につぶやく言葉です。
シンジ君はしょっちゅう「うざいうざい」と言われていますが、正直僕自身はそういった言論に不思議なものを感じます。


「え? じゃあ君たち謎のロボットに無理矢理乗せられて死にそうな思いした挙げ句、乗っけられたってだけの理由で人にぶん殴られても全然平気なの?」


確かに従来のアニメのヒーローとして観るならば、シンジ君は異端です。
しかし普通の人間として観ればこういった感慨を持つのは至極当然ではないでしょうか?

個人的にシンジ君の台詞は当時の自分にこの上ないほど深い印象と共感をもたらしました
だから僕としては碇シンジは肯定も否定も出来ないほどに自らと被るキャラクターであり、存在の圧倒的なリアリティによってまさに庵野秀明自身だったんだろうなという感慨を持っていました。
そして『序』のシンジ君は変わりつつある庵野秀明として観れていました。

TV版でも「男の戦い」では、ややヒーロー的な側面も見せていましたが、そのカタルシスもやはり自己と重ね合わせた結果得られたものだと思っています。

けれど、『破』のシンジ君は普通にヒーローでした。
もちろん開始当初~中盤まではエヴァに対しても否定的な言葉を発してはいますがけれども新劇場版の「男の戦い」では、アスカに対する仕打ちに怒って暴れ、レイを助けに行く男として描かれていました。

それは主人公としては正しい
でもエヴァンゲリオンの碇シンジでは無く、あのシンジ君と見かけだけが似ている誰か……として僕の目には映ったのです。


僕が好きなタイプの男にはなっているけど、
僕の共感した少年ではありませんでした



そして庵野秀明の現身ですら無くなって、「アニメの主人公」と化していたのです。
他のキャラの多くもしかりで、アスカもレイも、かつての姿より遥かに真っ当な存在になっていました。

けれども同時に「あのアスカ」「あのレイ」ではなく、やはり(変わってはいるけど)普通のキャラクターに思えました。
少数ながら、庵野さんの現身として描かれていると感じられたのはミサトさんと加持さんのコンビかなぁ。

もちろんそれを意図しての「ヱヴァンゲリヲン」なのかもしれませんし、最初に言ったとおり僕はエヴァを卒業した身で、これをボーナスコンテンツだと思っていますから全く怒りはしません。


その代わりに戸惑いました



作品そのもの以上に、観客に戸惑いました
正確に言えば観客と自分の差、でしょうか。
僕が観たのはヱヴァであってエヴァでは無かったのですが、多くの人はヱヴァをエヴァと繋げた上で評価されています
僕があの頃エヴァに惹かれた部分は限りなく薄くなっていたのに、他の人はやはりヱヴァとエヴァを不可分かそれに近い形として受け止め、更により良いものとして捉えられているように見受けられます。



じゃあ、あの当時……みんなはエヴァの何に惹かれていたんだろう?
僕と同じ部分で昔のエヴァに惹かれていたならば、『破』そのものを評価するにしろしないにしろ、語る時に少なくともTV版の要素が『破』で稀釈されているのを見過ごせないと思うのです。
そして、エヴァのエヴァたる由縁をそこに求めていたならば、ある種の奇妙さを感じるんじゃないかという考えがでてくるのです。

しかし色々巡って拝見する限りエヴァとヱヴァは別物と言っている感想は多くあれども、その違いを作品の特異性が消失した事に求める指摘はあまり見られません。
敵とか、映像とか、アスカの扱いとかの指摘はあるのですが、キャラクターの歪みが是正されている部分は概ね好評を博している感じを受けます。

だからみんながそもそもエヴァに惹かれた理由が僕とは違ったのかも分からないな、と今更気付かされて戸惑っている感じです。

ぶっちゃけキャラ改変については僕も良いと言いたいところなのですが、


でもそこを普通にしちゃったらエヴァンゲリオンの一番特異な作品性が消えちゃうよね


と思うので、評価すべきか迷うのですね。
また、キャラクターの歪みが消えている部分では、たとえばシンジ君が違う碇シンジを演じているように見えてくるので違和感が優先されてしまう。


公式同人だと思えばいいんじゃない?


とも言われて、実際そうだろうとも思うのですが、僕がいつも二次創作を考える時は「キャラクターが如何にも言いそう、やりそうな事例」を中心に考えるので、その辺りの落としどころも難しい。
僕の中の言葉で言えば

同じ容姿のキャラクターだけど性格を一部改変して動かしやすいようにした

という意味での二次創作として考えれば、多少納得がいく気もします。
しかしながら、その直後から


でもそこまでやるなら、いっそ違う作品作れば良くね?


という反論も思いついてしまうので、非常に厄介です。



まぁ「Gガンダム」も「ガンダム」シリーズあってこその部分も大きいと思いますので、


今回もエヴァでありながらエヴァじゃないって事が重要なのかもしれません。