20歳のバッハ――憧れの音楽家を訪ねた約400kmの旅〈後編〉
約400kmもの旅を経て、20歳のバッハは、ようやくリューベックへたどり着きました。そこで彼は、憧れ続けてきた Dieterich Buxtehude(ディートリヒ・ブクステフーデ) の音楽に触れることになりますしかし、この旅は予定どおりには終わりませんでした・・4週間の休暇が、約4か月にバッハが勤務していた Arnstadt(アルンシュタット) の教会から認められていた休暇は、4週間でした。ところが、実際にリューベックへ滞在したのは約4か月帰任後、教会当局から長期間不在だった理由について説明を求められたことが、当時の記録に残っています。なぜ、そこまで長く滞在したのでしょうか。その理由を、バッハ自身は書き残していません。約50歳年上の巨匠、ブクステフーデが生み出す演奏と作品その音楽に深く魅了され、少しでも長く触れたいと願ったのではないか、と考えられています。バッハがブクステフーデ本人と、どのような交流をしたのかは記録されていません。しかし、約4か月もの長い滞在を考えると、演奏を聴くだけではなく、何らかの形で直接その音楽に触れる機会があった可能性も考えられます。20歳の青年にとって、リューベックで過ごした日々は、一日たりとも無駄にしたくないほど貴重な時間だったのでしょうそして、この滞在中には、もう一つ興味深い出来事がありました。後継者に求められた意外な条件当時のブクステフーデは高齢となり、自分の後継者を探していました。ところが、その条件は少し意外なものでした。「後継者は、自分の娘と結婚すること。」現代では驚いてしまいますが、当時は教会音楽家の職と家庭が結び付いて受け継がれることも珍しくありませんでした。この条件は、後に Georg Friedrich Händel(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル) や Johann Mattheson(ヨハン・マッテゾン) にも提示されましたが、二人とも受け入れませんでした。バッハもまた、この条件を受け入れることはなく、ブクステフーデの後継者にはなりませんでした。 この旅がバッハにもたらしたものこの旅でバッハが得たものは、単なる演奏技術ではありませんでした。自由な幻想曲の発想。壮大なオルガン作品の構成。高度な対位法。そして、大オルガンが教会全体に響き渡る壮麗な音響。リューベックから戻った後、バッハの演奏や作曲には、北ドイツ・オルガン楽派の影響が色濃く現れるようになりますまた、アルンシュタット時代の記録からは、彼の演奏様式が以前とは異なり、周囲に戸惑いを与えるほど変化していたこともうかがえます。20歳のこの旅は、後に西洋音楽史を代表する作曲家へと成長していくバッハにとって、大きな転機の一つとなりました。「もっと学びたい」という気持ちこのエピソードで私が最も心を動かされるのは、旅の長さではありません。「もっと知りたい。」「もっと学びたい。」そんな学びへの情熱が、20歳のバッハを長い旅へと向かわせたのかもしれません。今では、世界中の演奏を自宅で聴き、研究書や楽譜も簡単に手に入る時代になりました。それでも、本当に人を成長させるのは、「知りたい」「学びたい」という気持ちなのではないでしょうか。バッハは、この旅の後も、生涯にわたって学ぶことをやめませんでした。約400kmという距離よりも、私たちの心を動かすのは、「もっと学びたい」という思いを胸に、その長い旅へ向かった20歳の青年の情熱なのかもしれませんだからこそ、この旅は300年以上経った今も、多くの人々に語り継がれているのでしょう。その旅で得た学びは、その後のバッハの創作の大きな礎となり、やがて世界中で愛される数々の名曲へとつながっていきました。20歳の青年が始めたその学びの旅は、やがて音楽史を彩る数々の名曲へと結実していったのです🎼 音楽こぼれ話「バッハは400kmを歩いた」は本当「バッハは約400kmを歩いてリューベックへ向かった」とよく紹介されます。この話は、18世紀末にバッハ最初の本格的な伝記を書いた Johann Nikolaus Forkel(ヨハン・ニコラウス・フォルケル) の記述によって広く知られるようになりました。現在でも、バッハが徒歩で旅をしたこと自体は、多くの研究者に受け入れられています。一方で、「約400kmの全行程を徒歩だけで移動した」と断定できる同時代の史料は見つかっていません。そのため現在では、「主に徒歩で旅をしたと伝えられている」と表現するのが、最も史実に忠実だと考えられています。とはいえ、片道約400kmという長い旅そのものが、20歳の青年にとって並外れた挑戦だったことは間違いありません。だからこそ、このエピソードは300年以上経った今でも、「もっと学びたい」という若きバッハの情熱を象徴する物語として語り継がれているのです。─── ❦ ───音楽を愉しむ。音楽をもっと身近に。作曲家たちの人生や作品の魅力を、これからもわかりやすくお届けします。