お大師様の霊廟の前で、瞑想状態でいた時

戦死した方々は癒されているのか

と問いかけてみたんですね。

そしたら、こんな感じのことを言われた気がしました。


私が未浄化な兵士を連れて浄化をしに来たのではなく

私が兵士に連れてこられたと思うとよい。

私がここにきて癒される必要があり

それで連れて来てもらったのだと考えること。


これの意味を考えてみました。


相手あっての自分、生かされている自分。

困っている人(霊)のために奉仕をする自分がいるのではなく

困っている人がいるから奉仕をさせてもらえる自分がいるのだ

ということ。


それをさせてもらえ、学ばせてもらえる。

自分ありきの人ではなく、人があって生かされている自分

だから感謝なのである。

全てのことは最終的に感謝で終わる。

助ける方、助けられる方、どちらも尊いということ。


そんなことをおっしゃりたいのかな、と。


考えてみれば

あの強烈な体の痛みは、どうやっても取れないものだったし

それがあったから、11月頃から行こうと思っていて

行けないでいた高野山に行くことができた。


そしてまた、改めて、定期的に聖地に行くことの大切さを

気づかせてもらった。


そういう意味で、私自身が真人間になったのだと思う(笑)

(真人間にこだわる私)


南無大師遍照金剛


これを三回唱えるんです。

すごい慈悲のエネルギーが来ます。


地下3メートルにある御廟は荘厳で

まさしく仏様が祀られているって雰囲気です。

声も出せず、固まってしまう感じ。

(緊張するというのではなく、神聖さに身も心も打ち震える

という感じですかね。)


すごい、とは聞いていたけど、本当だ・・・と思いました。


イスラエルの、キリストの生誕教会や、聖墳墓教会の雰囲気とも

神聖さという点で少し似ている感じがします。

仏式とキリスト教式の違いこそあれ。


御廟橋を出て、少し歩いたところで

またもやこんな光と遭遇。


奥之院で光


薄い雪化粧と高野杉と、太陽の光。

(しつこいけど)私が真人間になった瞬間でした。


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とにかく何か食べ物、と思って

奥之院の入り口を出て、見つけて入った食堂は

お店の人の愛想も悪いし、中身も値段の割にお粗末。

ま、高野山でおいしいものを期待しちゃダメか。


10時間のバス旅と

高野山までの片道2時間以上の電車旅と

結構ハードなスケジュールで

まぁ、いい年して無茶しているんですけど


朝は一刻も早く高野山行の電車に乗りたくて

軽く済ませたので、昨日一日割とろくなものを食べていなくて

帰りに大阪市内に戻って来てからは

もうどんなものを見てもおいしそうで

あれこれ買い込んで、新幹線に乗ってから、食べる食べる。


な~んて。


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まだ続く~。