今日は一日休養に徹しました。

これはある意味気分をリセットをすることになります。

意識を中庸に持って行く、という。

ヒーリングやチャネリングをする自分や

今は夫の看病、見舞いをする自分から離れ

何者でもない、シンプルな自分自身に戻します。


これが結構大事なことなんです。

戻す時には多少の気持ちの揺れがあります。

スピリチュアルなことだけ考えていた方が楽なので

そうなるのだと思っています。



そしたら夜になり、気づきがありました。

私は、同情という低いレベルの愛を使っていたのだと。

それらすべてを手放せと、高次元は伝えてきているのか。


例え家族であっても

一生を共にすると誓ったパートナーでも

同情という愛でつながっていてはいけない。


まさに容赦などありません。

きびし~い。



そしてそれに関して思い出したのが

母はよく、誰か、家族でも他人でも

かわいそうだから優しくする

というようなことを言っていました。

その当時私は子供だったし、昔昔のことなので

その愛が絶対とは思いませんでしたが

母のそういう愛情深いところは結構好きでした。

尊敬とまではいきませんでしたが

少なくても

人の悪口や愚痴を聞かされるよりは全然マシだった。



その影響なのか、人に対して向き合う時

同情というレベルの愛を使う

という癖が強くあったのだと思います。


かわいそうなところを見つけて、そこに

自分の、愛と思っているけれど

低いレベルの情愛を注いでいく。

そして、頑張った割には報われないと嘆く・・・。



同情という愛の中には、人を自分よりも上、下

という見方をしていると思います。

自分よりもかわいそうかどうか

大変かどうか、辛そうかどうか

そんな目線で見ていたのかもしれない。

比較、ですよね。



ああ、もしかしたら我が夫

無意識レベルで

私のこの、自分よりも大変かどうか

という同情の愛に気づき

そこに反発しているのかもしれない。



痛みや苦しみ、悩み、問題…等々

それらをどっちが大変かどうかなんて

比較できるものではなくて

みんな自分の学びに合ったレベルのものを持っていて

ただただ淡々と学んでいくしかないのです。



自分から見てどんなに大変そうに見えても

痛そうに見えても、動揺せず

今の自分が無理なくできることのみ

サポートさせてもらうことしかできないのでしょうね。



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さっき、電話がありました。

旅行社から!


ということは

エルサレムのツアーに空きが出たということなんです!


わーい!やったね!

行ってももいいという許可が下りたのかも?

どこから?上から?


まだ夫に断っていないので

明日それを伝えて、それから正式に申込みします。


3月中旬

初めての中東。

今から氏神さまとか、できたら熊野も行って

旅の無事を祈願してこよう。