針の音が聞こえていた。時を刻んでいく。
隣には女が眠っている。テーブルの上に残された飲みかけのビール。状況はいつでも不完全なままで、そして僕はその中でただぼんやりとひそやかに覚醒する。
音を立てないようにベッドを出た。テーブルの方まで歩いて、僕はソファーに深く座った。カーテンのすき間から月の光が漏れて、沈丁花の植木鉢をほのかに照らしていた。僕は飲みかけのビールをごくりと飲んだ。

なぜ忘れていたんだろう。時計は午前二時を指していた。昨日は終わり、もう今日が始まっていた。
昨日。つまり三月十日に僕の友人は死んだ。ずっと昔の話だ。

僕は過去を忘れて、現在を生きている。埃にまみれた過去と汗にまみれた今。どっちがマシだろう?
僕は、どちらも愛せない。

友人とは中学時代ずっと同じクラスだった。でも三年に上がるまで、ほとんど話をしたことがなかった。彼はあまりに大人びていて物静かだった。ほとんど話もしないし、いつも一人でいた。運動は出来た(テニス部だった)し、とても綺麗な顔立ちだったから、女の子にはモテていた。でも彼はそういう事にあまり興味なさそうに見えた。僕たちはみんなどこかで彼を尊敬しつつ、異質で理解しがたい人間なんだと思っていた。

ある日僕は授業中に頭が痛くなって保健室に行った。そこに彼もいた。本を読みながらベッドに横向きで寝そべっていた。彼はチラリと僕の方を見ただけですぐにまた本に視線を戻した。
僕は手持ち無沙汰で「保健の先生は?」と聞いてみた。
「さっき出ていった」と彼はそのままの恰好で言った。
「あのさ」と僕は言った。「隣のベッドに寝てもいいかな?」
彼はようやく本を伏せた。そして不思議そうな顔で僕を見つめていた。彼の白い肌や綺麗な二重瞼、細い輪郭。本当に綺麗な顔立ちだった。僕はなんだか奇妙な気分になった。
僕の思考を打ち消すように、彼は静かだけどよく通る声で「僕に聞かなくても、気分が悪いなら眠った方がいいと思うよ」と言った。そして一瞬だけくすっと微笑んだ。

それがきっかけで彼と仲良くなった。何か特別な事をしたという訳じゃないけど、学校が終わると静かな場所を選んで僕たちはたびたび話をした。静かな場所、というより彼のいる場所はいつでも静かだったように思う。彼は静寂を連れてくるのだ。
ある時、誰もいない教室で彼はこんな話をしてくれた。

「僕はいろんなすきまを抱えてる」
「すきま?」
そう、と彼は頷いた。
「すきまっていうのは言葉じゃ説明できないな。ただ感覚としてあるんだ。『今すきまの中にいる』ってね。そう感じる瞬間がある。そういう時にたいてい悪い事が起きる。だから僕はすきまを埋めてる。ジグソーパズルみたいに」
「すきまってさ、よくわからないけど、一人でいる時だとか暇な時ってこと?」と僕は聞いた。
彼はゆっくり首を振った。「違う。そうじゃないんだ。状況ってあまり重要じゃない。彼女といたり、友達と会ってたりしてもすきまを感じる時はたくさんある」
僕と会ってる時はどうなんだろうとふと思った。でもなんだか怖くて聞けなかった。彼は話を続けた。
「最近無意味な時間が増えてきてる。すきまを埋めるパズルの数が全然足りないんだよ。だからたまに思う。もう僕は終わりだろうなって。僕は間違っていたんだ。きっとその作りかけのパズルをぶち壊してしまうだろう。近い将来ね」
そう言って彼は黙った。ざわつく風景の中で僕たちは二人だけでいた。
「宗教をやればいい」と僕はふと思いついて言った。「宗教さえ信じていれば無駄な時間なんてない」
彼は意表を突かれたようにぽかんと僕を見つめた。そして「なるほどね」とだけ言った。

その友人はそれからすぐ交通事故で死んだ。それは完全な事故(少なくとも不完全な事故ではないって事だ)だった。とある深夜、青信号の歩道を渡っていた彼は、信号無視で走ってきた大型バイクに轢かれて死んだ。ほとんど即死だった。

不思議だな、と僕は温くなったビールを口に含みながら思う。死というのはどこかその人自身とは乖離しているように見えるのだ。なんだか、「馴染まない」。でもじゃあふさわしい死って一体なんだろう。彼にとって、僕にとって、ふさわしい死とは?

「その花ってなんなの?」
彼女が聞いた。月明かりの下、うつぶせに横たわって植木鉢を見つめている。
「沈丁花」と僕は言う。
「なにそれ」と彼女は言った。
「花だよ。少し香りがするだろう」
彼女は眼を閉じて鼻を寄せた。「…春の匂い?」
そう、と僕は言う。そしてまたビールを一口飲んだ。
「どうして僕と寝た?」
彼女はベッドに横たわったまま身体の向きを変えて僕をぼんやりと見つめた。奇妙なほど光のない瞳。
「楽になれると思ったから」
彼女はそう言った。
よく意味がわからなかった。僕とセックスする事で彼女の何が楽になるっていうんだろうか。
「楽になった?」と僕は聞いた。
彼女は首を傾げて、それから微笑んで、「なれなかった」と言った。
僕はすごく申し訳ない気分になった。
彼女はそのまま丸くなってもう一度眠った。

何台かのバイクが大きな音を立てて、外を猛スピードで通り過ぎていった。
気をつけろよ、と僕は呟く。
お前たちが思っているよりずっと現実は脆い。崩壊させるのは簡単なことなんだ。目の前は一気に暗転して暗闇の中に放り出される。そこには温もりなんてカケラもない。そんな世界があるなんてきっとお前たちは思いもしないだろう。でもそことここはほんの薄皮ほどの隔たりしかないんだ。
僕は泣き声を聞いている。引き裂くような痛みを伴って、泣き声はずっと頭の奥で響いている。

「何か言った?」と彼女が寝ぼけた声で言った。
「何も言ってないよ」と僕は言った。