アメリカのロックミュージシャンのなかには、叙事詩や小説、映画のような歌を作るアーティストがいる。例えば、ボブ・ディランやルー・リード、そしてパティ・スミス。彼らはロックを知的な文学へと押し上げ、その芸術性を高めた現代の吟遊詩人たちだ。
そして、アメリカのロック界にはもう一人、忘れてはいけないストーリーテラーがいる。愛称ボスと呼ばれる、ブルース・スプリングスティーン。彼は一見、マッチョなタフガイで、どこが文学的?と疑問を持たれる方もいるかもしれない。しかし、彼は1973年、アルバム「アズベリーパークからの挨拶」で、「ストーリーテラーのニュージェネレーション、2代目ディラン」と称されてデビューした人物である。
私が彼の存在を知ったのは80年のアルバム「リバー」だった。彼の歌を、私は映画を見るように聞いた。描かれていたのは、自由で夢のある楽しげなアメリカではない。曲に登場するのは、農村やブルーカラーの労働者が多い中西部、いわゆる“ハートランド”と言われるエリアの小さな町に生きる若者たちだった。10代で妊娠し、花もウエディングドレスもないまま結婚した若いカップルの寂しげな暮らしや、仕事にあぶれた男たち、家庭で起こる諍いや、真夜中のバイクでの疾走など、決して裕福ではない労働者階級の燻(くすぶ)ったアメリカンカルチャーが手にとるように理解できた。それほど、彼の歌は映像的でリアルだった。そして、彼の歌からはいつも未来のない町から逃げ出そうとする若者たちの希望が見えた。
まさに“アメリカの魂”とも言える人々を描き続けるロックミュージシャンの映画「ブルース・スプリングスティーン 孤独のハイウェイ」が公開される。この映画は、81年から82年の初頭にかけて「ネブラスカ」を録⾳しながら、同時に次作の「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の構想を練り始めた頃の彼の個⼈的な時間と心情を描く作品だ。
映画は、50年代のニュージャージーで、子供のブルースが酒場にいる父親を迎えに行くモノクロシーンから始まる。このワンシーンを見ただけで、ブルースが貧しい家庭に生まれたこと、父親がブルースにとって近寄りがたく怖い存在だったことが伝わってくる。
家庭内の空気は冷え冷えとしていた。父親はかなりのネグレクトで小さなブルースにきつく当たった。父親の心の中にある、まともな職につけないことへの不満や憤り、心の奥底にある怒りが酒を呼んだ。そして、家に帰るたび、寝ようとしているブルースを叩き起こし、「逞しくなれ」と言わんばかりに、酔った勢いでシャドウボクシングの真似をさせるのだった。
こうした回想シーンによって、ブルースが筋肉質でタフな姿になった理由と、その強靭な肉体からは想像できないほど、内面がひどく傷ついていることが明かされていく。彼は、父親との信頼関係を築くことなく、幼少期の心的外傷を抱えたまま成長し、アメリカのスターになったのだ。
彼は新しいアルバム制作のために、81年、地元のニュージャージーの郊外に一軒家を借りた。そして寝室にカセットの録音機を持ち込み、アコースティックギターを弾きながら、曲作りを始めた。静かな環境の中で、彼は心の底にある深い傷に向き合うことになる。心理療法の世界では、トラウマを克服するには、過去の体験の捉え方を整理し、その時の感情を表現することが重要だといわれる。まさにこの時期のブルースは、曲作りを通して過去の感情に向き合い、自己セラピーを行ったのだ。
ある日、アメリカの50年代の映画「地獄の逃避行」をTVで見ていた時のこと。若いカップルが出会う人を理由もなく次々とショットガンで殺害する事件を映画化したこの実話に衝撃を受け、ブルースは事件の真相を図書館で調べ始める。若者は「生きるに値しない者」として死刑を宣告された。その若者の心のうちを歌詞に綴り、詞が完成すると、ブルースは「彼」という3人称を、「私」に変えた。社会の片隅に追いやられた若者の心情と、幼い時から傷ついた孤独な自分の心境、そして父親の心のうちにもあった「負」の感情がぴたりと重なったのだ。こうして曲「ネブラスカ」が出来上がった。
アルバム「ネブラスカ」には、この曲を始め、犯罪者を描く曲が多く収録されている。「ジョニー99」では、借金を抱え、家も抵当に入れられているのに仕事が見つからず、酔ってボーイを撃ち殺して終身刑を言い渡された人物を描く。「ハイウェイ・パトロールマン」は、仲の良い兄弟の話だ。兄は警察官、弟はベトナムからの帰還兵。弟は復員後、町で障害事件を起こす。兄は逃走する弟の車を追うものの、決して捕まえようとはせず、一定の距離を保ちながら追跡する。兄はカナダの国境間近の路肩に車を止めると、走り去る弟の車のテールランプを見つめるのだった。また、「アトランティック・シティ」という曲では、ギャングたちの抗争に巻き込まれないように、町を抜け出そうとする男の決意が歌われる。「今夜アトランティック・シティで会おう」と恋人に伝えながら、「すべてのものは死ぬ。それは事実。でも死んだものは蘇る」と、自分の死を予感させながらも、男は栄光の日を夢見て、恋人と一緒に明日に向かおうとするのだった。
こうしたストーリー性のある曲で構成されるアルバム「ネブラスカ」へのブルースの思い入れは大きかった。彼は派手なサウンドを一切使わず、カセットテープに録音した時の、自分の息遣いが伝わる素朴な音のレコーディングを望んだ。エンジニアからどんなに「不可能」だと言われても、決してブルースは折れなかった。こうして出来上がったのが、アコースティックギターとハーモニカをバックに、絞り出すように枯れた声で歌うアルバム「ネブラスカ」だ。
82年にリリースすると、レコード会社の懸念をよそに、全米3位にチャートインし、特に「アトランティック・シティ」はライブ会場で大合唱になるほど愛される曲になった。
彼は自分のトラウマに向き合ったこの時期に、次のロックアルバム「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」(84年)も作曲していた。このタイトル曲では、「町でちょっとした事件を起こすと、銃を持たされて黄色人種を殺しに行かされたが、帰国しても仕事にありつけない、アメリカに生まれたのに…」というベトナム帰還兵の苦難を歌っている。この曲はリリース直後、全米トップ1位にチャートインし、全米84週間にわたってトップ10に入るという異例な現象を巻き起こした。ちなみに、アメリカの悲哀と政治への批判を込めたこの曲を愛国歌と勘違いして、ロナルド・レーガンは大統領選挙活動に利用し、ブルースや多くのファンから叱責を招いた。
ブルースは、社会から置き去りにされ、忘れ去られた人たち、つまり敗者の側に立つアーティストだ。彼の真摯な視線には、国家や社会、家族や友人、 仕事といったあらゆるものから孤立した人々を繋ぎとめようとする真の優しさと誠実さがある。彼は、今にも闇に落ちていこうとする危うい者やアウトローたちに光を当てて救い出そうとする。
この映画では、社会の底辺で生きる者たちの心情を深く探りながら、父親を理解しようとし、自分の傷を癒そうとするブルースの深い苦しみとひたむきさが淡々と描かれる。84年、ようやく父親との長年の葛藤が終わり、二人はコンサート会場のバックヤードで打ち解けて、ぎこちなくも温かな親子関係を初めて体験することになる。そして、映画の最後に、私たちは、ブルースが今でもうつ病に悩まされていることを知らされるのだ。
彼が初来日した1985年。私は国立代々木競技場に出向いた。ブルースは汗を飛び散らせながら全身全霊で歌い、ステージを走り、歌った。演奏は3時間以上にも及んだ。以来、3時間を超えるライブを行うミュージシャンに出会ったことはない。
この時、こんな逸話を耳にした。成田にバンドメンバーと共に着いたブルースは、自分用に用意された黒塗りのハイヤーをキャンセルして、バンドメンバーと同じワゴンに乗った。ホテルの車寄せに着くと、助手席から飛び出して仲間のためにドアを開ける男がいた。それが、ブルース・スプリングスティーンだったという。




