「虚面の逃避」 第8分冊 早乙女裕之

第8編 本音

 それでも耐えるべき場合もあるのである。そこに人間は把握として愛情を感覚することができるのであり、ならば辰野は感覚を捨てた愛情を妙子に与えたと私は思うのである。辰野は悲しい人間であると私は思う。なぜならば感情を絶つ機会を知らないからであると思う。人間はときに感情を絶つ必要があるのであると思う。私は思う、人間は幾らでも感情を複数において偽ることができると思う。過去の私のようにである。私には疑問に思えるし職業倫理として禁じ手である錯覚原因が原因で錯覚的に結果を意識して受け入れる偶然の無限があることの偶然である。事実とは実に兆しの発露であると思った。それが現実であり現実であったのである。この乖離の原因はどこにあるのかと思うに人間の深みであると思う。それは当事者が考えた末の結果である場合には仕方がないことであると思う。片面的であったらどうであったろうかと思うと辰野の罪の意識は減刑された筈であると思う。必要的に。それを排除した辰野は当初においては「架空の実行正犯」であったと思う。私が思うには結果の不能を彼女が情熱を以て認容したので辰野は妙子の中に悪魔を見なかったとは言えると思う。辰野に心理的葛藤もなかったと思う。ならば辰野は未必的に彼女を認容したと思う。私は流石だと思った。虚偽とは言え精神科医を経験が生きたと思う。なぜならば辰野は妙子の方向を読み切ったと思うし読み切った結果としての安定に彼は彼女の信頼を認めたと思う。その挙句として彼は実現してしまったことの後悔を彼女が決定してしまったことを残念だと思ったと私は思う。彼女は平気でそうした可能性があると思う。人間は理性が作用しない場合があると思うし理性が芽生えることの偶然に彼女は怯えたと思う。そうとは言え彼女の態度は肯定できないか疑問に思ったときにおいて方策が在れば酷い結果にはならななった可能性はあると思う。彼女は先が見えなかったのかも知れないと思う。手段はいくらでもあったはずであると思う。彼女の錯覚が原因であったのか現実が原因であったのかは理解できないと思う。人間の混乱と動機は無因であることを私は肯定する必要があると思う。私は確信的に思ったのであるが、感情を規整するのは感情ではく感情を規整するのは動機であることをである。私は結果として妙子は感情を肯定したと思う。彼女は支配に直面したときに現実にも直面したと思う。人間の原因とは支配であるし悲しいことに支配が現実を招くのであると思う。だからであろう、フランス刑法が故意と言う感情ー心理的確信ーに動機ー理解ーを含まない原因が私にはよく理解できたと思う。『私はまた嫌悪するかと悩んだ。悩むと記憶との闘いに挑む必要があると思った。』彼は私に後からそう述べた。私は思う、記憶との闘いとは自分が肯定すればいつでも可能であると思う。それが何故に辰野にできなかったかと言えば彼が矛盾な態度を採ったからだと思う。その矛盾が結果と時間を結びつけたと思う。私はそこに人間の感情の脈動を意識することができると思う。彼がその感情の脈動を数度に渡って許したことは肯定できると思う。しかし私は倫理と良心は区別されるべきであると思う。彼は倫理を否定した中において矛盾としての良心に躍起になったと思う。その結果が現実に再度戻ったと思う。それは否定されるべき態度ではないと私は思う。だがしかし人間は瞑ろうと思えばいくらでも瞑れることを彼は理解できた上で結論に至ったのか絶望の果てとして認容せざるを得なくなったのかが判然としないのである。若し後者であるならばなんと卑怯な男とではないかと思う。辰野の哲学とは何であったのかと疑問を挟む余地はあると思う。彼は自己の哲学を技術と思ったのではないかとうことである。その上において更に彼は人間の方向を示す技術の上塗りとして善意を示したとするならば彼の善意は化けの皮が剥がれたのかも知れないと思うと私は彼は医師ではではなく人間であることを認める必要があると思う。私は思う、辰野という男は素直な男ではあると私は思う。その素直な態度が在れば過去の女性を自由にできたと思うと至極において残念で慙愧に耐えがたい思いをするのは誰か!辰野お前なんだぞ。今となってはそう思えるがこの時は異なっていたと思う。人間の良心とは場当たりな自己満足としての自己評価ではないと思う。私は場当たりてな良心を施すならば沈黙を守るべきであると思う。と考えるならば辰野が妙子に接近したことは偽善ではないかと思う。当初の辰野にはその意図が無くとも相手を錯覚させた以上においては計画的犯行としかいいようがないと思う。その実行の着手が辰野が妙子に示した怠慢ではないかと思う。「早めに切り上げて横浜に新しいホテルができたから見にいこうか。」と辰野は疑問という形で誘ってみた。「辰野さん私に甘えたいの。」と立場らしい言葉で優しく語ってきた。私は「私でいいのか。」と彼女に機会を与えた。妙子は「今度は私が与えてあげるからね。」と辰野が予想していたとおりに彼女の別の立場が顕わになった。私は「君に甘えてもいいのか。」と欲しがるような目つきを年上の女性に配るような配慮を言葉の終わりに付け加えた。「甘えて見たい。」と私は気まぐれを装って確認した。妙子は「いいのよ。」と恰(あたか)も私が年下であるかのような口ぶりであった。横浜までは近いようで遠かったにすぎない。なぜならば私達は途中において大船駅で下車して既に「いた」のである。私は彼女を「近い形」で距離を意識せずに呼吸を感じるのは最初であった。彼女の甘さは依然と異なるように思えた。私は大人げなくも彼女の結果を自己に引き付けた。私は急に彼女の誘惑にかられた。依然と認識が全く異なった彼女は「姿」を出した。私が感情を剥きだしにしたほうが彼女の踰越を充たすと思った私は彼女の空間を結果で許容した。彼女はそれを「女」としての感覚として変化へと受け入れた。彼女の愛情という恐怖が彼女の顔を感情で包みあげた。妙子に対して手段ー甘えーを受け入れさせるための目的の主導権を陰から渡すのは非情に困難であった。しかし妙子は能動的に自己の広がりに結果として自由を得させたのである。妙子の感情は結果へと突き進む予感を得させた。私は自然と彼女の形を把握する用意があったし事実において行った。彼女の色情の微表は感情を立てたのである。私は頂点から裾野へと広がるところの彼女の領域を弄んだ。その領域は彼女の指示に依存させた。結論から言えば彼女が順序を受け入れて果てへと向かわせるように仕向けた。彼女の結果は物足りないようであり彼女は結論を自ら選択した。立場が逆になったことを私は受け入れた。私は互いが形において観念を懐けたと思う。彼女は正常の形に戻れたと思った。矢先に私は妙子に形の平等を認めくなったのであり不注意で道具の取り付けの結果をしくじった。結果としてそれが彼女を振るい立たせたために私は誤って目的を彼女の内包に残余させてしまったのである。妙子が言うには「先生私初めて楽しめたような感覚がします。」と謂われて私は妙子に感情を受け渡したい気分に襲われてしまったのである。私は予測も付かない確率を彼女に与えたことで権利を超えてしまったような気分に襲われたのである。結局において私は妙子の表現に飲み込まれたのであると思う。私の欲情が倫理を凌いだのであると思う。それを後悔していない自分に苛立ちと起伏を同時に味わったのであり結果として私は彼女の味覚に染まったと思う。私はその味覚を独占したいと思ったが矢先に妙子の言葉が妙に引っかかるのである。「私は原因を受け入れたと思います。」私は「やっと性を受け入れましたか。」という安堵感と恐怖が入り混じった畏怖が私の脳裏をよぎったのである。私はこの不安という困難を受け入れようと思ったのである。私は人間の感想とは無邪気なものであり一過性の麻疹にも思えたが結果として私は別の病に罹患したと思う。理由を述べるならば私は臆病という結論を自らの意思で導いたのかも知れないと思えた。しかしそれは感覚的なものであり認識が及ばない程に疎遠な関係を認めるには程遠かった。ならば私はその関係を事柄で紛らわす手段を考えたと思う。しかし、それは私を物と考えることであり、そこに私は事実を意識することは不可能であると思えたのである。私は何故か感情を欲しなかった。なぜならば彼女にどのように表現するべきかという規範を彼女の内包に置き忘れたからであると思う。これが感情の本質であると同時に思えたときに私は妙子に自分の感情を預けたことを意識した。