「虚面の逃避」第5分冊 早乙女裕之

第5編 絶望

 私は思ったのであるが馬場妙子自身が矛盾の根拠となった理由は愛情の理不尽にあると思えた。妙子が「私に矛盾を下さい」と謂うのは愛情の理不尽の裏返しである愛情の飢餓であるならば妙子は私に恋愛感情を錯覚しているのではないかと思えたのである。私は妙子が自分に偽善の愛を求めているのではないかと思えた。私は迷った。よって患者である妙子に医師として愛情を与える手段として「自分の私生活」を彼女である妙子に伝えるべきであると思った。私は薄々において妙子の夫である馬場俊雄と妙子の間に夫婦の問題があるのではないかと思えたのである。彼女が診察において俊雄の名前は記憶の中で語るかのように「言葉の静けさー沈黙ー」として語ってるとするならば愛情の理不尽には俊雄は含まれていないと思えた。では愛情の理不尽の原因は何かを問い詰めたときに私は妙子のお姑すなわち義理の母親である馬場恵美が俊雄に過剰な愛情を注いでいるのではないかということである。とするならば妙子が理不尽な愛情を意識した対象とは実は姑である馬場恵美に対する「女としての嫉妬」ではないかと思えたのである。私が思ったことは妙子が私に「嫉妬を下さい」と言っているのではないかということである。やはり妙子の「荒療治」は私と紀子との私生活の内容を語るほかにないと思えたことは真理であると確信に至ったと思う。私が紀子に感情を直接的に意欲として言えたのは紀子から愛情の示し方を教わったからである。医師の立場として妙子に愛情を示す可能な方法とは「問診ー生活の暴露ー」だと気が付いた。私は妙子を回復させる一番最適な方法を認識したのである。それは彼女を自宅の家政婦として雇うことである。私は妙子が今の生活を呪っているならば直ぐにでも隔離させる方法を取らないと彼女の精神が破壊されると思ったからである。と同時に紀子は午前勤務だけにして午後は妙子と私の部屋で会話させる必要性も意識したのである。私は紀子に「紀子、家政婦さんいたほうが楽だよな?」と言ったときに妙にはぐらかされた。「え?好きな人でもいるの?」とである。私はこの時に気が付いたのである。紀子もまた「妙子」と同様に「偽善の愛」を求めて私と結婚したのかもしれないという経験からの感であった。私は紀子と会話を一度切った。よく考えた。私は鎌をかけた。「前に好きな女性がいたんだけどどう思う?」と紀子に言ったところ「いいわよ、私との愛情が切れなければ。」と謂われて私は確信に至った。ここまで感情を甚振れる紀子の事情が分かったと思う。私は紀子の愛情の中に「不快感」を意識せざるを得なかった。私は紀子は過去に大きな心の痛みー別れーを抱えていることを意識できたのである。私は彼女の心の痛みの反動が私への愛情であることを確かに記憶した。人間が感情を偽れるのは「自分だけはない」と思えたのである。彼女もまた自分を否定してると思えたのである。彼女の性格の良い部分が「否定の明るさ」だとするならば私がいないところでは紀子がどのような感情の持ち主であるかという事情が掴めない以上、家政婦として妙子を雇うことは断念しないといけないと思った。私は仮にも精神科医を名乗っている以上紀子を立ち直らせる権利ー欲求ーがあると意識した。私は欲求とは人格によって命令された「ところー規範ー」の志向を根拠とした対象の評価であると考える者である。次の朝、私は意図的に紀子に「先に行くからね。」と言って、とあるマンションの一室から足早に医院に向かった。紀子は「一緒に行こうよ、少し待ってヒールの低いのにするから、急ぐんでしょ。」と謂われたので私は紀子に「一人でぶらりと遠回りしてから医院に来ては?」と言ってみた。不思議そうな顔をしたので私は「いつもと違う空気や環境もいいぞ」と言ってみた。紀子は不安げな顔つきになったので私は「後は自分で決めていい。」と放任してみた。すると紀子は何かを思い出したような顔付きで覗くのであり「いいのかな?」と言うので私は「いいよ。」と突き放してみた。紀子は嬉しそうな顔付きで「じゃあさ何食べたい、今日は。」というので「私の好きな親子丼でも作ってくれ、味は紀子に任せるから。」と言ったところ紀子は「口に合わないといけないからさ。」というので私は「大丈夫だから。心配しないで作ってごらん。」と促した。「いいのかな?」と言うので「残さないよ。自信持って。」と励ましてみた。ところ紀子は「ごめんね、美味しいご飯作れなくて。」というので私は「料理は味じゃないから。」と言ってみた。すると自信を持ったのか「じゃあさ、御免ね、オムライスでもいい?」と言うので「オムライス私も好物だから。」と安心させた。私は急に紀子が自分の恋人ではなく妹のように思えた。私には妹が「いた」のである。幼いときの記憶しかないが何か自分の妹を見ているようになった。私は急に立場が入れ替わったような錯覚を覚えた。私は感情とは過去の記憶から抜き取ることも可能であると思った。私は今日も診察にくる馬場妙子の介入の仕方を通勤途上の電車の中で考えてみた。妙子は私に錯覚してるならば錯覚を事実して理解することも重要であると思えた。人間はときに誤解を認識してしまうと思う。そこで他人ができることは錯覚を事実と一緒に飲み込むことであると思えたからである。よって私は早めに着いた医院のデスクで彼女である妙子のカルテを早速において確認をした。意外な事実が理解できた。彼女の初診日にまさかと思うが妙子の前に俊雄と結婚していた元妻である神田芳江という女性の電話番号が記載されていたのである。電話をしたところ彼女は未だに独身であった。話をした感じでは私と一緒で感情を見せない中々気風のいい女性であったのである。彼女が言うには俊雄という男性は母親である馬場恵美と「べったりー関係ー」であったとのことであった。私は何となく感じとれた。俊雄が妻である妙子を構わない男であるということである。私は彼女に俊雄の性格を聞いてみたところ「建前の男」であるとのことであった。相当に真面目で一見において大人に見えるが母親の前にでると「巨勢された子猫」になるとのことであった。その女性はズバリ言いのけた。彼女が言うには俊雄という男は「嘘面」であると。私は思った、妙子もまた犠牲者であると。神田芳江は「あの人は懲りもせずにまた・・・」と言うのである。私は男は母親に頭が上がらない部分は否定できないと思った。しかし妙子の壊れ方は異常であった。ならば俊雄の母親への愛情もまた男としては「中途半端」であると思えた。私は思う、母親への感情と妻への感情は異なると思う。母親への感情は過去の記憶としての評価の対象であり愛した女性への感情とはその女性の個性を受け入れた部分の評価すなわち対象の評価であろうと思う。私は過去の女性の呪縛から「今になって」解放されたと思う。過去の私は私の中を通じて間接的に彼女を見ていたー憧れーと思う。それが皮肉にも彼女には「私」が負担となったと思う。やはり私が彼女を消してしまったと思う。重い負担を負った女性は自分の中で同意ー決意ーすると思った。それと比べて私は自分の外延の中に彼女を認めて彼女の記憶を消そうとしたので私の外延の中で罪の意識を認識したからこそ私は私自身が負担ー恐怖ーとなったのであるということを自覚できたと思う。私は恐怖とは人間の主体的判断を踰越したところの人格の否定として許容されるところー規範ーの対象の評価であると思う。