というか、本当は海皇紀完結という情報が入った際、再開が未確定な状態で「『修羅の門』再開はあるのかないのか」について書こうと思っていた。
『川原氏が新作について触れるまでに書こう』と思っていたら、あっという間に8月に入り、しかも再開決定も確定。それに関するインタビューが公になる前日になって慌てて取り上げたわけで、毎度の仕掛かりの遅さに閉口している。
日記アップ直後、出勤途中で月マガの9月号が店頭に並んでるの見たときには、
「うわ、『インタビュー読んで日記書いたんだろうな、にしても、的はずれな記事書いてやがるw』とか思われてないだろうか」
とちょっとブルーになった。
※内容読んでみたら、そこまで外れてなかったようだったのでちょっと安心した。まだ精読してないので、なんとも言えないのだけど。
取り敢えず、やはり13年以上のブランクは川原氏も気にされているようで(13年前と現在の『格闘理論』との隔たりなどの問題で、作品中の時間の流れについても無視できないブランクと考えておられるようだ。)、『第弐門』(取り敢えず最初)がストレートに四部の後に繋がることは可能性として低いようだ。
それと、対ケンシン戦、海堂・片山との再戦についても、まだ未定(インタビューの中で「あるかも」みたいな回答されてた)らしく、ますます持って、『第弐門』の全容が分からない。
それについては、「もしや九十九の子どもにクローズアップ?その中で、回想として九十九の『神に売った喧嘩』の行末について描かれる?」的な予想も立つわけだけれども、私としては
「圓明流を終わらせる事を目的として立った九十九が、自身の息子に圓明流を継がせるわけがない」
という論があるので、それはどうかな、と思う。
ただ一つの考え方として『修羅の門』というものが、
「徒手格闘における強さを追い求める者が、何物をも犠牲にしてその道を進むため(修羅になるため)にくぐらねばならぬ門」
を指しているのであれば、必ずしも主人公が圓明流を身につけていなければならないというものでもなく(記憶の中では九十九のライバルたちも『“修羅の門”を開けた』的表現があったかと。)、息子が圓明流を継ぐこと無く「修羅の子は修羅」的展開で進む話も『修羅の門』と言えば言えないこともない。
しかしやはり、圓明流の重さ(千年練り続けた代々の“陸奥”達、あるいは“陸奥”になれなかった者達の想い)と『修羅の門』の物語は因果的に切っても切れない、ある意味『修羅の門』=『圓明流の物語』とも思うわけで。
『“陸奥”に生まれ落ち、“陸奥”として育てられた者にのみ到達できる境地』に達した九十九が紡いだ系譜に対し、『“陸奥”の血を引こうとも“陸奥”として育てられなかった者』の紡ぐ系譜が負けないほどの魅力ある物語になるのかは、果たして…、である。
あと、九十九とも、これまでのライバル達とも違う、新しい登場人物の『修羅の門』をくぐる過程を取り上げ、その物語を徐々に九十九の物語にリンクさせていく形もあるのかとは思う。
(これは既に『今、原作と作画が喧嘩して係争・中断中の“とある作品”』が、さる事情で掲載誌を3つほど移籍する過程で取られた手法)。
手法としては一番無難な気はする。新たな主人公で現代格闘理論を展開しながらブランクを埋め、かつ九十九登場で4部直後の過去について断片的に触れてもそこまで無理もなくないし…。
とまあ、ここまで『第弐門』の予想を書いてみたものの、当たろうが外れようが特にどうという話でもなく(逃げ、かな?w)、空想を楽しんでいると思って容赦いただきたい。
既に作者が走り始めている以上、こちらに出来るのはそれを楽しみに待つのみである。
あと、今回の再開情報で公にされた『修羅の門異伝』についても後日、余談的に書きたいと思う。
※しかし、普段は「です、ます」調で日記を書くのに、今回についてはなんで、「だ、である」になってんのか…。
(理由は分かってるんですけどね。今回の記事書くにあたり、相当川原氏のあとがきを読み込んだわけで、その影響が如実に出てるんですよ。)
修羅の門(1) (講談社漫画文庫)/川原 正敏

(敢えての文庫版)