ご報告 新院展に入選しました | パパンズdeアトリエ

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芸術、宗教、思想、科学、宇宙、夢のことなどを筆が勝手に紡ぎ出すがごとく綴ります。

2024年、第56回新院展に自分が描いた油絵がどうやら入選したようです。

町内の知り合いの奥様で、日展の役員をやっている方が、その世話役の一人でもあり、自分の油絵を見て、「この作品いい出来だから、新院展にお出しなさい。」といい、やや強制的に自分の作品を軽トラに載せて、「えっと…、出品料1万円と輸送費千円ね」といいながら、彼女の車で上野の美術館まで搬送して下さり、締め切り間際だったが、どうやら受付られたようだ。

それから暫くして「おめでとう!あなたの作品が評価され入選されましたよ」という連絡があった。
これまで新院展というのは恥ずかしながら自分も認識が無かったので、確認の意味もあり、院展と新院展の違いについて説明します。

院展の歴史

1898年(明治31年)、岡倉覚三(天心)が東京美術学校を排斥されて辞職した際に、自主的に連座して辞職した美術家達(橋本雅邦、六角紫水、横山大観、下村観山、寺崎広業、小堀鞆音、菱田春草、西郷孤月)がいた。彼らは日本美術界の旧弊に抗う岡倉の美術研究の構想に賛同し、岡倉天心がそれをまとめる形で美術研究団体としての日本美術院を谷中大泉寺にて結成した。
洋画の部は、1920年大正9年に解散し現在は日本画のみの活動となっている。

新院展の歴史

新日本美術院(新院展と略称)は、昭和43年(1968年)に、義江清司を会長に選び、美術団体における権威主義を排し、自由な芸術創作活動を助成し、かつ、海外にての美術展をも企画して、これを行い、各国の美術家との相互理解を深め美術文化の高揚をはかる目的で、創立されました。
国際公募展として開催し、広く国際的に作品を募集しています。いままでに韓国、台湾、アメリカ、キューバなどからの公募の実績があります。

 

 

東京上野の東京都美術館2Fです。確か、ここは昔、日展の会場だったように記憶しているが…。
9月10日(火曜日)から9月16日(月、祭日)まで展示されます。


 

コーヒーブレーク

学校で唯一好きだった授業は美術だった。

特に、皆で揃って港に絵を描きに行く日などは、心うきうきしながら出掛けて行ったものです。
絵を描いている時が、何もかも忘れ無心に熱中できるからです。
休みの日なども、友達と一緒にスケッチに行くのが楽しみだった。
その友達に藤本君というのが、特に絵の才能があったと記憶しています。
 

「お前は、藤本君という男を知っているか?」自分のすぐ上の兄貴が、職場が同じだったのか風景画をプレゼントされ、自宅の部屋に飾ってあった。
見ると夕景の景色だったが、やはり画才を感じさせる油絵だった。

その兄貴も、既にこの世には居ない。
「郷里は遠くにありて思うものなり」という格言もあるが、年々、帰るべき家も、会うべき友もなくなる、この頃なのであります。

絵画が好きなのは、中学の授業で恰幅のいい先生が、実物大のモナリザの絵を掲げながら、「どうじゃ!お前ら、昔はこんな美しい女性がおったんじゃ。」と羨ましそうな目つきで、腰を振りながら熱弁を振るう仕草が、とても面白かったからです。

絵を描くと、描けば校舎の正面玄関に飾られるのだったが、展覧会とはあまり縁が無かった。
高校生の頃、市展に入選し、努力賞のようなものを頂いたのが最初で最後だった。
多分、その絵は高校のとある先生の自宅に飾ってあるだろうと思う。
自分は、あまり教授陣には好まれていなかったようです。「なんと横着な生徒」くらいに嫌われていたようだ。

絶えず喧嘩ばかりしている可愛げのない生徒だったという印象があるようだ。

なんど教員室に呼び出されては、人物査定されたことだろうか。


美術部の友人などは、高校二年生で市長賞を受賞し、その作品は校長室に飾ってあった。
鏝だけを使って実物大の瑞々しい白菜や大根といった野菜を画面いっぱいに白を基調に描いた作品は、一切の混じりけもないほど鮮明に輝いていた。

 

市長賞以上の賞は無いので、翌年からは、客分対応としての参加となるのです。大人を差し置いて、しかも、専門に勉強してきた大人を差し置いて高校生が客分扱いとは、さすがに彼も気が引けたのだろう。
それ以後、すっかり彼は絵筆を置いてしまったのです。だから、若くしてこれ以上ない賞を受けるのも、どうかとも思うのです。
今回、新院展に入選したのは実に嬉しい限りなのだが、同時に何か得体の知れない重圧感も感じる。なぜなら、そろそろ人生の終末に近く、拡げた露店を畳み始める時期に「新人賞」などと言われても気恥ずかしい限りだからです。

「芸事は若い頃に修得するもんだ」という格言があり、それは本当だと思うが、絵画だけは別な気もするのです。
五十歳を過ぎ、ぼちぼち仕事量も減ってきたので、あの若い頃、抱いた希望か夢か、あるいは妄想のようなものが何だったかを思い出す為、アトリエに通うようになったのです。
老年になればなったように、確かに、絵の好みも変わるが、変わったら変わったなりに楽しめるようになります。
絵画を鑑賞、あるいは模写するには、その作家の時代背景も知る必要があり、歴史や社会を勉強する必要もあり、若い頃には知り得なかったことも知るようになります。それらを通じて、その作家をより深く知るようになること、それもまた絵画の楽しみのひとつなのです。

そして、気長にお付き合いくださればと思います。