1話
秀一と出会ったのは、今から二年前の事。
泉が中三の時に、秀一が近所に引っ越して来たのだ。
―――妻の早苗と共に。
秀一は律義な人で、わざわざ引越しのあいさつに泉の家までやって来た。
その時初めて顔を合わせた泉は、一目で彼の事を好きになってしまった。
人生初めての一目惚れだった。
でも彼は既に結婚していて、泉がどんなに想いを寄せてもそれが彼に届く事はない。そんな相手に恋していてもただ辛いだけだと諦めようとしたけれど、顔を合わせる度、話をする度、どんどん好きになって・・・もう自分でも彼への想いを断ち切る事は出来なかった。
「顔、すげぇ緩んでる」
むにっと泉の頬を、友人の隆史が摘む。
「何かいい事あった?」
「浅井さんと会えたんだ」
泉はニコッと笑って、今朝の秀一を思い起こす。
寒さで鼻の頭を赤くしていた秀一が何だか可愛くて、ついギュッと抱き付きたくなった。
会う度に、彼に対する愛しさが増してくる。
「相変わらず、不毛な恋続けてんだな」
ズキッと胸が痛くなる隆史の言葉に、緩んでいた顔が引き締まる。
不毛――確かにそうだと思う。なぜなら、秀一は結婚しているからだ。
でも、それは一年前の話で、妻の早苗はもうこの世にはいない。
元々心臓の持病を持っていた早苗は、秀一と生涯を共に出来る程の体力を持っていなかった。
小柄で可愛らしいというのが泉の早苗に対する印象で、まるで持病を持っている人間には見えなかった。明るくて、笑顔が絶えない女性だった。
秀一はそんな早苗を心から愛していた。自分よりも早くこの世を去ってしまうのだと解っていながらも、『その時』が来るまで彼女を愛し続けようと契りを結んだ。
早苗をひたむきに愛する秀一に、泉は強く惹かれた。
彼女に向ける優しい眼差しを、自分にも向けて欲しい。
彼女を愛するように、自分の事も愛して欲しい。
彼女を抱く腕で、自分も抱きしめて欲しい。
そんな欲望が波のように、泉の心の中に押し寄せてくる。
今の秀一は独身の身だけれど、彼の気持ちは今もずっと亡くなった早苗に向いている。
一緒にいるとそれが痛い程伝わってくるから、辛くて悲しい。でも、そんな秀一を好きになったのだから仕方ない。
「お前さ、何でそういう奴らばっか好きになるんだよ」
隆史は机に頬杖を付いて、呆れたように言葉を漏らした。
彼は泉の性癖もどんな男(ひと)を好きになるのかも良く知っている。知っても変わらず友人として付き合ってくれている、泉にとって大切な『友達』だった。――少なくとも、泉はそう思っている。
泉は自分で思っている以上に整った容姿をしているので全くモテない事はないが、異性に興味を持つ事はない。
可愛いとは思うけれど、ただそれだけだ。それ以上の感情は抱かない。
今まで好きになったのは全て同性で、相手には必ず恋人がいたり、誰かに片想いをしている人が殆どだった。
泉は 『誰か』 に 『恋』 をしている人間に強く惹かれる所がある。そうじゃない同性にはあまり魅力を感じる事はなく、好きになる事もない。けれど、いざ相手の気持ちが自分に向いてしまったら、その相手に対する気持ちが冷めてしまう。
『誰か』 に 『恋』 をしている男(ひと)に恋焦がれ、自分も同じように愛されたいと胸を痛めながら願っていたというのに、実際にそうなってしまうとその気持ちが嘘のように消えてなくなってしまうのだ。
自分は一生 『誰か』 に 『恋』 をしている男(ひと)しか好きになれないのだと、泉はそう思っている。
好きになれても、両想いにはなれないのだと。
それはきっと 『恋』 ではなく、単なる 『憧れ』 なのかも知れないが。
「何でって・・・解ってたらこんな辛い思いしてないよ」
どうして自分は、いつも辛い恋しか出来ないのだろう。いや、そもそも 『恋』 なのか?
それすらも解らない。けれど、秀一に対する想いは本物なのは確かだ。彼が自分に振り向いてくれたとして、絶対に今の気持ちが冷めない自信がある。寧ろ、もっと彼を想う気持ちが強くなるだけだ。
ふと窓越しに空を見上げる。
今日は久し振りに天気が良く、雲一つない群青の空が何処までも続いていた。
その青いキャンバスに、秀一の姿を描いてみる。
秀一は、他の大人とは違う優しい目付きが印象的だった。
何でも受け入れる心の広さがたまに心配になるけれど、それが彼のいい所だった。
もう立派な大人なのに少し抜けている所があったり、おっちょこちょいだったりする彼の性格が泉のツボだ。
そんな彼を見ているだけで、心の底から愛しさが湧き上がってくるようだった。
そっと両手を机の上で広げ、それに視線を移す。
柔らかな冬の日差しが白い掌に注いでいる。
(この手で、あの人の全てを感じたい・・・)
愛される幸せもこの手で感じたいと、泉は強く思う。
だから、亡くなっても尚秀一に愛され続けている早苗が羨ましい。けれど、亡くなっても秀一も縛り付けているようで、早苗の事を憎いと思う醜い感情も共存している。
ふと泉より大きな手が、そっと泉の手を優しく包み込んだ。
「隆史・・・?」
泉が顔を上げると真剣な表情をした隆史が、真っ直ぐ泉を見詰めていた。
先程と雰囲気が違う隆史に、泉は息を呑んだ。
「・・・俺じゃ駄目か?」
囁くような言葉だった。
泉は何の事を言っているのか解らず「何が?」と、首を傾げた。
隆史と触れている手が熱い。
「俺じゃお前の恋人になれねーのかって訊いてんだよ」
隆史の告白に、泉は言葉に詰まる。いきなり過ぎて、言葉の意味さえ直ぐには理解出来ない状態だ。
ただ解るのは、隆史は真剣に話しているって事。掌に感じる彼の手の熱さと湿っぽさがそれを表している。
「・・・泉?」
黙ったままの泉を怪訝に思ったのか、隆史は泉の顔を覗き込んだ。その近さは、お互いの息が顔にかかるくらいだ。身を引こうにも、ギュッと両手を握られているせいで距離が取れない。
「た、隆史・・・近い。皆に見られるよ・・・・?」
「見せとけばいい」
ハッキリと言った隆史の迷いのない目が泉をしっかり捉え、泉の心臓がドキドキと煩く内側から胸を叩いてくる。もう周りの雑音など、耳に入って来ない。隆史と自分の世界にどっぷりと浸かる。
「・・・あの―――」
泉がやっとの思いで口を開いた瞬間、昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。それにパッと現実に引き戻されたかのように、泉は口を噤んだ。
「返事はいつでもいいから」
向かいの椅子から立ち上がった隆史はそう言って、泉の頭をポンッと軽く叩いた。
そして、
「これだけは言っとくけど・・・浅井っていう奴より、俺の方がお前を幸せに出来るから」
自信満々に言って、自分の席へと隆史は踵を返した。