「保健所」 この言葉を聞くといつも頭に浮かぶ犬がいる。
真っ黒で大っきな犬、タロー。
小さい頃、近所の家で飼われていたタロー。いつも日当たりのいい場所で、手足を伸ばして気持ち良さそうに寝
ていた。今思えば彼は既に老犬だったのかもしれない。ゆっくりゆっくり、大きな身体を揺らしながら散歩をしていた。
小学生の私は毎朝「タロー」と声をかけて学校に行くのが日課となっていて、そんな時は、もったりと首を持ち上げ
て見送ってくれた。
二つ上の学年にK君という、いわばガキ大将的な男の子がいた。いつも自分が1番で、身体も大きかったから下
級生はもちろん、同級生にも恐れられていた存在だった。
彼が時々、皆の前で野球のピッチャーの真似をしてタローに石を投げているのを見た。タローは低い声で唸る事
もあったが、態勢を崩す事なく寝転んだままだった。
どうだ?俺はあんなデカイ犬にも負けないんだぜ!おまえらには出来ないだろ?
そんな風に思わせたかったんだろう。
私はk君には何も言えずに、家に帰ってばーちゃんに教えた。
しばらくして事件がおきた。タローがK君に怪我をさせたと、小さな町内で話題になった。グルグルと腕に包帯を巻
いていた。
でも、私は真実を知っていた。あの日、K君が棒を持ってタローに近づいた。いつも寝ていたタローだが、自分の
身に危険を感じたのだろう。素早く起き上がって、ウォン‼と吠えて威嚇した。その瞬間にK君はビックリして後ろに
倒れて腕を擦りむいた。
それなのに事実とは違う話しに変わっていた。タローが急に襲いかかり、K君に噛み付いたと。
タローは一緒に飼われていたニワトリ達が目の前で遊んでいても、ただ眺めている様な、優しい犬だ。町内の誰
もがそれを知っていたはずだ。
大人の世界が分からない私は、ばーちゃんに本当の事をK君の家の人に教えて来てくれと頼んだけれど、無理
だった。余計な事を人に言うなよ、と言われた。
わざとらしくグルグルと巻いてある包帯を見るたび、ムカムカと憎悪の気持ちが込み上げてきた。そして、本当の
事を言えない自分の不甲斐無さと、理不尽な大人の都合に腹が立った。
しばらくし、今度はK君のじーちゃんが頭に包帯を巻いているのを見かけた。大人達が聞こえない様に噂してい
た。タローが今度はじーちゃんに襲いかかったと。でも、悪いのはじーちゃんの方らしいと。
タローの家には、少しだけ知的障害を持つおねぇさんがいた。障害を持っているとは言っても、読み書きが苦手な
だけで身体は丈夫だったし畑仕事も家事もちゃんと出来る人だった。そのおねぇさんがタローを散歩している時、
じーちゃんが自転車で通りすがりに片足でタローに蹴りを入れようとした。そして威嚇され、バランスを崩して自転
車ごと転んだ。これが真実だ。
だけど、どれくらいたった頃だろう。
タローがいなくなった。いつもの場所でタローを見る事がなくなった。家人に聞くと、タローはもう死んだんだよ言っ
た。なんで?母親に聞けばはぐらかされ、父親に聞いたら、病気で死んだんだと言われたが何かを隠している様
だった。
そしてばーちゃんが教えてくれた。
タローは、人を二人も怪我をさせてしまったから保健所っていう所で迎えに来て連れていかれたんだよ、と。K君
の家で、タローを保健所にやらないと許さないって、訴えたんだよ、と。
そして、タローは悪くないのにな。と言った。
「保健所」 犬を殺す場所。小さい頃、ずっとそう思っていた。
保健所は悪い所だと。何もしていない犬を殺してしまう怖い所だと思っていた。
あの時、勇気を出してタローの前に立ちはだかり、ヤメろ‼と言えたなら良かったのに。悲しくて悔しくて、わんわん
泣いた。なんでタローが馬鹿の餌食となって殺されなければいけないんだろう。なんで大人達はみんなタローを
かばってくれなかったんだと、親やばーちゃんを責めた。
今も思い出すタローの姿。大きい身体を投げ出して気持ち良さそうに寝ているタロー。
数年後、k君の家は事情があり一家離散した。私はザマァミロと思った。私の生霊か、タローの怨みか。
でもそうではない。命を粗末にし、それをあざ笑う様な人は、何に向き合うにしてもお粗末なのだ。
彼はタローの事を覚えているだろうか? もし、心のどこかに引っかかっているのならば、ずっとその重荷を背負っ
て生きていけばいい。
タローや、タローの家人の思いに比べたら、そんなのはちっぽけな痛みだ。
タロー、ごめんね。本当にごめんね。