今日の新聞のTimeに鶴ヶ城が載ってて
テンソンあげぽよキラキラ(福島民報新聞)


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いろいろ書いてあったので、
Timeが読めない方の為に紹介します。

興味がある方は是非!






観光ふくしまのシンボルともいえるのが
会津若松市の鶴ヶ城。

現存する日本唯一の「赤瓦の天守閣」として
今春、新たに生まれ変わった。


何故赤瓦なのか?

瓦の改良対策に起因している。


寛永20(1643)年、会津領主となった
保科正之公の時代に遡る。


鉄分を多く含んだ釉薬(ゆうやく)を
使う事で、水分の凍結によるしみ割れが
抑ええられるようになった。


城内の瓦は徐々に
この瓦に取り換えられた。

焼き上がりが赤茶色だったため、
赤瓦と呼ばれるようになったという。


赤瓦の天守閣は
江戸時代にいくつかあったが、
全て取り壊されてしまった。



会津若松市は観光庁の
国際観光戦略拠点に
指定される見通しになり、
会津はまさに本県観光の
復興の鍵を握っている。

選定されれば、外国人観光客が
安心して滞在できるよう、
外国語の案内板表示も進むよう。


市内には鶴ヶ城の他に県立博物館、
国指定重要文化財のさざえ堂、
白虎隊で知られる飯森山、さらに
会津武家屋敷、やすらぎの郷会津村など
元気な観光スポットは多い。

レトロ調のボンネットバス、
ハイカラさんに乗って回るのも楽しい。






…だそうです。(o^-')b


また、鶴ヶ城の石垣にも歴史が…!







本格的な石垣を築いたのは
蒲生氏郷公と言われている。

文禄2(1593)年に黒川城を
若松城と改めて、本丸に
七層の天守閣を建てた。

それに合わせ、近江から連れてきた
職人集団・穴太(あのう)衆が石積みに
当たった。


当時石垣があったのは、
天守閣や門、櫓(やぐら)など一部で、
自然石を積み上げる「野面積み」で
築かれた。


しかし…、

400年前の慶長16(1611)年、
この城を巨大地震が襲う。


M6.9の直下型「慶長の大地震」だ。


死者3700人、倒壊家屋2万戸という
記録が残る。


会津盆地の出口で大川がせき止められ、
「山崎新湖」ができた。

城も甚大な被害を受けた。


天守閣や櫓は傾いて壊れ、
屋根の瓦が散乱した。

石垣も大きく崩れた。



当時の城主・加藤明成公は
城の大改修に着手する。


天守閣を七層から五層に改めて再建し、
石垣を修復した。


当時は大きな石と石の間に小石を入れて
隙間を無くす「打ち込み接(はぎ)」の
工法が用いられ、綺麗に高く積み上げられた。



その後も新たな石垣が築かれ、城の周囲に
巡らされた。

江戸後期には大きな石を切断し
断面を接着させる「切り込み接(はぎ)」が
導入される。



3月11日に発生した東日本大震災で、
会津地方は震度5強を記録し、石垣も
一部は崩れた。

だが、本丸の天守閣がある石垣は
びくともしなかった。



城に入る門の前の石垣には
邪気を払う目的で「鏡石」という
巨大な石が置かれた。


北側の入り口にあたる太鼓門付近の鏡石は
「遊女石」の名前がある。


2メートル以上もある石を運ぶのは容易でない。


石の上で遊女が踊り、
その元気をもらいながら
職人達が丸太や木製のそり「修羅」
を使って懸命に運んだんだろう。


石垣は城の隠れた歴史も刻んでいる。

*◯水の北 山の南や 春の月◯+-110616_162931.jpg


…だそうです。(=゜ω゜)ノ



なるほど~。

勉強になりますね。


やっぱり昔にも大震災は
あったんだなぁと思った汗


しかも江戸時代にね~。



ますます会津に行きたくなったにょん♪



つか鶴ヶ城本来の姿、赤瓦は
やっぱり格好いいですなハート(*´д`*)