息子の学校、学校の行事がちょいちょい入る時期です。

 

このブログは基本、あまり用事が込んでいない平日に更新するということにしているのですが、保護者会などがある場合はもう絶対に書けなくなります。

 

いや単に学校行ってお話聞くだけでも何故か、とてもとても疲れるのですよね。

 

なんで学校関係の用事って、こんなに疲れるのだろうか、と、不思議に思っているのですが、

 

 

主人に「そりゃ、やっぱりアレだろ、無理してるんだよ。猫かぶっているというか」

 

 

そうなんだろうな〜

 

 

いくら仲良しのママ友ばかりでも、先生もみんないい人でも、何度行っても、息子の学校はやはり緊張する場所なのです。

 

 

 

あまたある学校を見学し、説明会を聞き、授業の体験をさせ、その中でも、ここだ!と思い、必死で受験して入った学校です。今でも、やっぱり憧憬の念はあるし、敷居をまたぐ時は、緊張するのです。

 

いや確かに疲れるんだけどね、でも、そんな緊張感を与えてくれる、この学校が親子で大好きです。でも疲れる。要するに私はちょっと見栄っ張りなんだとは思うんだよ。別に取り繕っても今以上によくなんねえよ。

 

 

 

 

全然関係ない話から始まりましたけど、最近よく昔のことを思い出します。といっても妊娠から育児にいたる、子育て関係のこと。ホントいろいろあったな〜

 

 

というワケで、少しづつ妊娠出産の話を語っていくシリーズになります。

 

 

今までも、これとか、これとか、これとか、いろいろ書いていたのですが、思い出すままに。

 

 

 

息子、35週1700g代で出産。

 

当然ですが、NICU直行です。

 

 

 

NICUNeonatal Intensive Care Unit、新生児集中治療室)は、医療的ケアの必要な赤ちゃんが運ばれてくる場所です。

 

 

特殊なケアが必要な場所ですので、病床数が厳密に決まっており、要するにどんなに悪い赤ちゃんが産まれても、いっぱいだと入院することができません。(当時。今はどうなんでしょうか)

 

 

私が母体搬送されたのが、24週の時でした。当時の息子の推定体重が、約400gかなり厳しい大きさです。

 

 

 

当然、もし産まれてしまえばNICUに入ることになるのですが、当時、私が入院していた病院にはNICUはありませんでした。

 

 

「2000gあれば面倒見られるんだけどねえ、このまま産まれちゃうと、赤ちゃんを搬送することになってリスクが高いから、お腹にいるうちに、NICUのある病院に転院しませんか?」

 

という話をいただきました。

 

 

当時、私のお腹の張りは10分間隔を切るような、切実な状況でした。すでに張り止めの、ウテメリン、マグセントもMAX点滴。これはいよいよ産まれてしまうかもしれません。

 

 

そして、今ならNICUの空きもある、ということでベッド確保の意味もあり、系列の都心の大学病院に母体搬送されました。

 

 

 

…が、張りはそのままに、私の子宮頸管長が土壇場での粘り勝ち。

 

 

結局産まれることなく、その後も長期入院による免疫低下で、感染症、腸炎、帯状疱疹、カンジダなどなどかかりまくり隔離され、妊娠高血圧症がどんどん悪化し…と、もう、全然退院なんて夢のまた夢のまま、35週で帝王切開となりました。

 

 

と、そんなこんなで、転院までして確保していたNICUのベッドですが、入院後、なんと

 

ものの3日ほどで追い出される息子。

 

…いや、めでたいことなんですよ。

 

でもちょっともったいねえと思ったりもしたり。

 

 

 

息子が移動したのは、同じNICU内にある、GCU(Growing Care Unit)。入れ子状になってるっていうのかな、NICU内に、そのまた小部屋があって、その小部屋が「NICUの中のNICU」、その外が「NICU内の、GCU」みたいなカンジの作りでした。

 

 

要は、医療的ケアの終わった、「小さいだけで、特に悪いところは無いですよ」という赤ちゃんは、GCUに移されます。当然、悪化してNICUに返されちゃうとか、ベッドの空き具合で、何度か引っ越しさせられる赤ちゃんとか、まあ、いることはいるのですが、基本は、NICU→GCU→退院、という流れでしょうか。

 

 

 

 

息子、あれこれイロイロあった割には、大変に元気。

 

 

 

推定体重は1500g、実際は1700g代後半、推定体重の予測はけっこう外れることも多いのですが、にしても、割と大きい方に外れたと思います。

 

 

そして、身長は35週相当と同じ、体重だけが少ないという状態でした。要するに、チョー、痩せっぽっち。ガリガリ。

 

 

当時の写真です。この時期、肖像権もクソもないと思うので…

 

 

 

これでも管の数、減ってると思います。小さくてガリガリ、頭身だけはシュッとした、なんか赤ちゃんっぽくない見た目でした。

 

 

「特に悪いところはないですよ」

 

と言われてはいますが、やはり小さい。

 

 

生理的体重減少で、1600gを切り、ああ、低出生体重児から極低出生体重児になってしまう〜とヤキモキするような状況。

 

 

周りの退院直前の赤ちゃんがもう大きくて大きくて羨ましてくて…毎日泣いていました。

 

 

今ではラーメン替え玉して私に「食い過ぎだ!」と、怒られています。信じられない。

 

 

 

そして、薬剤の過剰投与という軽い医療事故に遭ったり、ピルピリン値が高くなって日サロ体験したりと、まだまだイロイロあるのですが…

 

 

 

入院から1ヶ月半、退院が決まりました。

 

その頃は、息子の顔もずいぶん肉が付き、無事に関取系の顔になっていました。カワイクないのがカワイイ。

 

 

見ての通り、NICUの赤ちゃんには、なんかイロイロな管が付いています。鼻のチューブは途中で取れましたが、酸素濃度を測るサチュレーションモニターは、退院の最後の瞬間まで付いていました。

 

 

泣くたびに、ピーピーと鳴りまくり、とても怖かったと同時に、

 

 

「ああ、私が面倒見るよりずっと安全、確実だ。私、酸素濃度なんて全然わかんないもん。ここに預けていれば何も心配ない」

 

と思ったものです。

 

 

そうなんです、もちろん、かわいい子供です。手元にいないことはとても寂しいですし、NICUを後にする時は、いつも、とても悲しく、申し訳なく、なんでこんなことに、なぜ子供と一緒にいられないのか、と思ってはいたのですが、

 

それと同時に、

 

こんな小さい子、私にはとてもじゃないけど面倒見られないや。入院している限り、安心だな

 

と、そんな風にも思っていたのです。

 

 

 

当時は私の体力も回復しておらず、なかなか遠方の実家に身を寄せていたため、毎日の搾乳とNICU通いは、過酷極まるものでした。

 

 

駅の階段、一歩上がるごとに休むような状態で、都心の大学病院に通う日々。

 

 

面会時間いっぱいいると、夜になります。すると会社から帰った主人が、わざわざ車で息子の面会に来て、私を乗せて帰ってくれました。当時の私に、電車で往復する体力はなかったので仕方ないのですが、主人にも大変な負担だったようで、未だに「子育てで一番しんどかったのは、NICU通い」と言っております。マジほんと感謝しかねえ。

 

 

そんな辛い日々でしたが、帰り道の車の中の私は、とても安らかな気持ちでいたのを覚えています。あんな手厚いところに息子を置いているのだ。あとは元気になるだけだ。何も心配ない。(が、実は息子、軽い医療事故に遭います。もう何も怒ってるとか恨んでるとか病院不信とかないのですが、これもいずれ書きたいと思います)

 

 

 

そんな日々を過ごしていたのですが、

 

 

遂に、遂に、あの!!憧れの、待望の!夢の!待ち望んだ!

 

退院の日を迎えます。

 

 

息子(と私)の入院していた病院のNICUでは、退院のときに、ちょっとした、セレモニーのようなことをしてくれます。(これもいずれ詳しく書こうかな)

 

 

これが、なかなかに感動的で、NICUのドクター、ナースが総出で見送ってくれるものなのですが、

 

 

おめでとうー!おめでとうー!さよならー!ありがとうございましたー!お世話になりましたー!えぐえぐ(泣いているナース、私)

 

 

 

と、大々的に見送られ、大きなドアがパタン、と閉まった、その瞬間から、

 

 

 

NICUのある小児病棟の廊下には、いつもの静寂が訪れます。

 

しー…ん

 

 

 

そして、私の腕の中には、小さい赤ちゃん。

 

退院できたといっても、それでも大きいとは決して言えない大きさです。

 

 

 

当時、息子のいたNICU退院の目安は、2200gとか、2300gとか言われていました。小さいは小さいですけど、別に普通に育てられる大きさの赤ちゃんということなのでしょうか。

 

 

このあたり、NICUの混雑具合とも微妙にからんでくる問題のようですが、(中には2000gで追い出されたという方もいました)

 

 

息子の入院時、なんでか都内のNICUは、やたら空きがある状況だったようで

 

 

(とナースが言っていました。実際、私が入院していた産科も、今、都内どこも周産期関係、ヒマなんだってーという話を聞きましたし、使ってない部屋がいくつもあって、夜中は人が少なくてちょっと怖いくらいでした)

 

 

 

主婦さん、いつまでいます?うちは余裕あるから、都合のいい日でいいですよ!

 

と、普段ならあり得ないであろう、よい条件で退院することができたのです。

 

 

 

しっかり土日を選び、満を持しての退院でした。

 

 

 

退院当時、息子の体重は、2600gほど。

 

もう既に低出生体重児でもない。

 

 

 

ですが、2ヶ月にもなろうという赤ちゃんですし、やはり「小さい赤ちゃん」であることはかわりありません。

 

 

しかも、ついさっきまで、サチュレーションモニター付けてて、プロの手で24時間の医療ケアを受けていた赤ちゃん。

 

 

それが、いきなり、

 

子育て素人の、一般人の腕の中にいる。

 

先ほどの賑やかなセレモニーから一転、現実に引き戻されます。

 

 

 

…これ、どうしろっていうの?え?今から私が面倒見るの?24時間?

 

 

マジか。そうだ、そうだった。

 

 

退院って、この子、返されちゃうんだった

 

 

 

本当にこんな心境でした。

 

 

主人も同じような気持ちだったようで。

 

退院手続き、支払い関係の書類の提出(倒れちゃうような金額の請求書がきます。が、いろいろな手続きをすることでかなりの金額が免除になります。このあたり、詳しく詳しく書く予定でおります)

 

そんな喜ばしい時間、夫婦で口数が少なかったことを覚えています。

 

 

帰り道の車の中。

 

 

 

「…あーねえ、ええと、オムツとか、全然ないよね」

 

「そうだね。そういえば、何の準備もしてないじゃん。買わなきゃ。」

 

「病院で使ってたもの、一通り買えばいいのかな」

 

 

 

なんせ退院の当日の当日まで、

 

自分自身の長期入院からのNICU通い(結局、私は自分が退院した日を含む、毎日、息子の退院のその日まで一日も欠かさず、面会時間いっぱいまで通い続けていました)

 

そこからの退院だったので、そもそも息子を迎える準備などする時間も、心の余裕もまったくありませんでした。

 

 

 

オムツも、お尻拭きも、結局は退院の帰り道に、薬局寄って買うという、泥縄式になってしまう我が家。

 

 

車の中でも、買い物中でも、夫婦の間には、なんというか、同じようなモヤモヤとした気持ちが流れていました。

 

 

 

「…ねえ、夫くん。」

 

「…うん」

 

「これ、返されちゃったね。どうしよう」

 

「これから、この小さいの、ふたりで24時間面倒見るのか…」

 

「ね、恐ろしいよね。今から病院に返しに行けない…よね」

 

「…無理だよなあ。さっき大々的に見送られちゃったしな」

 

 

 

息子はギリギリ、病院に迎えに行く道すがら、リサイクルショップで買ったチャイルドシートに納まっています。スヤスヤ眠る我が息子ですが、

 

 

 

私、母親だけど、この子が何を考えているかも、何が必要かも、今の酸素飽和度も、何もわからない。ってか、完全に素人。つい、1時間前まで、プロが見てた赤ちゃんなのに。

 

 

 

そんな、「ど、どうしよう…」の気持ちマンタンのまま、私の実家に到着しました。

 

 

実家では、「息子くん退院おめでとうパーティー」の準備がされていました。

 

 

私の両親、兄弟一家、息子のいとこ達が、みんな息子の退院を、心待ちにしてくれていました。

 

 

NICUは、両親と、その祖父母しか入室することができず、私の母以外は、息子誕生から1ヶ月半、初めての対面となります。

 

 

赤ちゃんがくる!これってテンションあがるものですよね。

 

 

私の親族一同、うわー、かわいいー!小さい!初めまして!あら寝てるの?あ、起きた!よしよーし、抱っこしていーい?と、まあ、かなり賑やかに歓迎してくれたのですが…

 

 

おお、病院と全然違うな、NICUって、なんというか、もっと淡々としているというか、シューシュー、ピーピーうるさいんだけど、テンションはいつも一定で、まるで精密機械の工場のような雰囲気というか…

 

 

そんなカンジなので、普通の賑やかさと、その場にいる息子という状況がとても不思議で、これは現実なのか、とピンとこないような気持ちでした。

 

 

 

さて、そんな状態の私と主人だったのですが、やはり周囲のテンションに付いていくことができてなかったようで

 

 

「…なによ、あなた達、全然嬉しそうじゃないじゃないの。」

 

と、私の母に言われちゃったのです。

 

 

 

…そ、そうか…端から見ても、あんまり嬉しそうじゃないのか。そりゃそうだよな。

 

 

 

「…あ、うん…なんていうか…今からこれ面倒見るのかと思うと…」

 

とは答えてみたものの、苦労して産んだから、もっと喜ぶと思ったのにーというような反応で、まあ、そりゃそうだよねそう思うよねとも思うのですが…

 

 

正直、あの時の気持ち

 

嬉しかったか、嬉しくなかったか、と言えば、

 

 

 

嬉しくなかった

 

と、今なら断言できます。

 

 

喜ばしいことだ、非常にめでたいことだ、とは、思ってました。これは、もうホントに心から思ってました。

 

 

しかし、私の中に、心からの嬉しい、という気持ちがあったか、と言えば、それは無かったな、と思います。

 

 

それは恐らく主人も同じでしょう。

 

当時の私の気持ち

 

「困惑」

 

これに尽きるな、と。

 

 

 

複雑ですよねえ。めでたいことなのにねえ。

 

 

 

 

そして今だから思うのですが…

 

当時、あまりに不安が大きくて、

「今から退院取り消して、もう少しお預かりすることもできますよ」とか言われたら、きっと私、喜んで息子を再入院させたように思います。

 

いっそ「やっぱり無理です。心の準備が整うまで、もう少しいさせてください」と、泣きついたかもしれません。

 

 

 

が、それを思いとどまらせたのは、例の

「退院セレモニー」です。

 

 

これ、今度詳しく書きますが、

 

「ああ、退院したんだなー」という気持ちになる演出が、数々あるのです。

 

 

めちゃくちゃ穿った見方だと重々承知なのですが…

 

 

ああ、退院してしまった、もう戻れない

 

と、親に思い知らしめる、そんな役割を果たしていたなー、という風に思うのです。

 

 

 

 

 

結論

「善意100パーの『おめでとう』に人間は逆らえない」

 

いやこれ違うな、違うけど、まあいいや

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これ、前にも貼ったのですが、NICUに置いてあった書籍のひとつです。こんなの置くなよ。泣くだろ。ってか、当時でも辛くて絶対に開けない本でしたし、何なら今でもキツくて読むことができません。ぐるぐる王国 楽天市場店