ソはぶつぶつと小言を言いながら、部長室の中を行ったり来たりするペガを見てため息をついた。
「おいペガ、いい加減落ち着け。」
ソが言うとペガは立ち止まり、強張った表情でソを見た。
「ソ兄上は落ち着きすぎですよ!!ム兄上が会長候補から引きずり下されそうになっているっていうのに!!」
「まだ引きずり下されたわけじゃないだろう。それに社内投票で立候補した候補の中からム兄上が選ばれればいいだけだ。」
「そう、選ばれればいい話だ。」
そう言って入って来たのはヨだった。 もう帰る予定なのか片手に鞄を持って、もう片方の手でネクタイを緩めながら入ってきた。 その顔にはどこか満足気な笑みが浮かんでいた。
「何のようだ。」
ソが言うとヨは近くの壁に寄っかかりながら言った。
「兄に対してそう嫌そうな態度を取ることはないだろう、弟よ。」
ここ十年、兄弟らしい会話というものをしたこともなければ、お互いにいがみ合っているのに何を今さら。 ソはヨの言葉を無視して言った。 「早く要件を言ったらどうだ。」
変わることのないソの態度にヨは顔をしかめることなく言った。
「母さんからお前を夕食に招待するように言われた。」
ヨの言葉にソは耳を疑った。
「夕食だと?」
「あぁ、8時には家に着くようにしろ、絶対に来いよ。」
そう強く言ってヨは身を翻すと部屋から出て行こうとした。
「おい。」
ソはヨを呼び止めると言った。
「何が狙いだ?」 ここ数年口を聞いていない母からの夕食への招待なんてソには何か裏があるようにしか思えなかった。
「さあな。」
ヨはソの質問には答えず、薄ら笑いを浮かべると背を向けて去って言った。
「急にどうしたんですかね。」 ヨがいなくなるとペガが言った。
「どうせ会長候補の件で呼んだんだろう。」
叔父であるユ・ソンジュの発言を思い出しながらソは言った。
「まさか兄さんを会長候補に推薦するつもりですかね。」 ソは立ち上がって帰る準備を始めながら言った。
「まさか。あの母親が俺のことを嫌ってるのを知ってるだろう。どうせヨ兄さんを会長候補にするのに使えると思って呼んだんだろう。」
ソが言うとペガが不満そうに言った。
「あの人が次期会長に?あの人なんかよりソ兄さんの方がよっぽど会長に向いてますよ。」
「そう言ってもらえて嬉しいが、あいにくあの家では俺は高麗の本ばっか読んでいる頭のおかしいやつでしかない。」
「少なくとも会長はそう思っていないでしょ、そうじゃなきゃ兄さんを経営企画部の部長になんて任命してないでしょうし。」
「そうかもな。」
「あっ、そういえば兄さん。高麗展はどうだったんですか。」
そう言われて頭の中に自分を見つめる彼女の姿が浮かび上がった。 ふと彼女に名刺を渡していたことを思い出して慌ててケータイを取り出すと案の定彼女からの連絡が来ていた。
ーさっきはありがとうございました。お礼がしたいので近々会いませんか? 連絡待ってます。
ーコ・ハジン
「兄さん?」
ソが彼女からのメールを見ているとペガがケータイを覗き込んできた。 自分より背が高いペガはソが画面を隠すまもなく、すでに文面を読んでしまっていた。
「誰です?このコ・ハジンって人。」
「長くなるから後で説明する。今日家にいるだろう?」 ケータイをしまってパソコンの電源を落としながらソが聞くとペガは頷いた。
「キンパかなんか店からテイクアウトしておいてくれないか、家で食べれるように。」
「行くんですか?」
「ああ、あの母親やヨが何を考えているか知りたい。」
ソは言った。
「分かりました。でも、夕飯食べてくるんじゃないんですか?」
ペガに聞かれてソはため息をつきながら答えた。
「あの兄と母親と一緒に平和に食事ができると思うか。どうせ途中で嫌になって家を出るのがオチだ。」
ワン・ソは二年ぶりに実家の前に立っていた。 江南の高級住宅街の一角にある実家はワングループ現会長の住む邸宅と言ってふさわしい豪華絢爛な外観をしていた。 久しぶりに来た実家を眺めているとソに気づいた家の警備員が近づいて来た。 警備員は働き出して間もないらしく、ソがこの家の家主の息子だと言っても信じていないようだった。 その様子に若干の苛つきを感じながら家の者に確認するように言うと、面倒くさそうにスマホを取り出して電話をかけた。 スマホを耳にあてて話している彼を見ているとどうやらソがこの家主の息子だと確認が取れたらしく、警備員は慌ててソの元にやって来てソに謝ると急いでソを家の中に通した。 小さな噴水や花々などが生い茂る綺麗に手入れされた庭を抜け、大きな玄関ドアの前に辿り着くとソはインターホンを鳴らした。 少ししてドアが大きな音を立てて勢いよく開いた。 中から出てきたのはジョンだった。 ジョンはソを見るとどこか気まずそうに軽く頷いて言った。
「久しぶりです。兄さん」
「ああ、久しぶりだな。」
兄であるヨとは会社で会うことはあるが、家を出たソにはまだ大学生であるジョンと会う機会がなく、会うのは半年ぶりだった。 中学、高校、大学と家を出ており、成人しても家に寄ることのなかったソはジョンとはもう何年も会話らしい会話をしたことがなかった。 また母とのことでソは昔からジョンのことを避けていたので兄であるヨと同様に良好な仲であるとはとても言えなかった。実際、実の弟であるジョンよりも親戚であるペガとの方が仲が良かったし、ソはペガを弟のように思っていた。 どこかぎこちない雰囲気が流れる中、家の中に入るとソは家の中を見回した。 家にいなかった時間の方が長かったソには家の中が昔と変わっているかどうかは 分からなかったが、廊下の壁にはソが小さい頃から飾ってあった婚礼衣装に身を包んだ両親の結婚式の大きな写真が変わらず飾ってあった。 靴を脱いで廊下を進み、ジョンに続いて広い居間の中に入るとソより先に来ていたヨがソファーでテレビを見てくつろいでいた。ヨはジョンに続いて居間に入ってきたソに気づくと言った。
「来たのか。」
「ああ。」
居間を見渡すとすでにダイニングテーブルの上にはキンパやプルコギ、キムチなどの料理が並べてあった。
「母さんは?」
ソが聞くとちょうどソが入って来たドアとは反対側にあるキッチンに通じるドアが開いてエプロンを着た家政婦らしい女性を引き連れて母が入って来た。 母はソが居るのに気づくとその形のいい眉を釣り上げて言った。
「久しぶりね。」
「ええ。」
母はソを上から下までじっくり見ると言った。 「元気そうね、でも少し痩せた気がするわ。ちゃんと毎日しっかり食べてないんじゃない?」 赤い口紅がひかれた唇から発せられたらしくない言葉にソは驚いた。
「さあ、早く席に着いて。いっぱい作ったから今日はいつもの分もしっかり食べなさい。」
母は驚いているソを席に座るように急かすと、家政婦の女性にワカメスープを持ってくるように言い、ジョンやヨにも席に着くように言った。 ソの隣にジョンが、そして向かいにヨが座ると母はヨの隣に座った。
「父さんを待たなくていいんですか?」
ジョンが聞くと母はプルコギの皿に手を伸ばしながら言った。
「ええ、今日は遅くなるから待たないで先に食べてくれと連絡をもらったわ。」
ソは会議が終わった後、深刻な顔つきでム兄さんやパク補佐役を連れて会議室を出て行った父の姿を思い出した。
「そうですか。」
どこか残念そうな顔をするジョンをよそに母は笑顔で言った。
「さあ、早く食べましょう。ほらソや、これを食べなさい。昔から好きだったでしょう。」
そう言って母はソの皿に牛肉をのせた。 ソは母が自分の好きな食べ物を覚えていたことに驚いて母を見た。 母はそんなソの様子に気づくことなく、ジョンの皿におかずをよそってやっていた。 ソは困惑していたが母によそってもらったおかずを美味しそうに頬張るジョンを見て自分も箸を手に取り、皿に母が置いた牛肉を口に運んだ。 食事はしばらくの間は平和に進んだ。ソはジョンや母が会話するのを聞きながら静かに食べ物を口に運んでいた。時々母がソの皿にキンパやキムチなどをよそってきて、その度にソは軽く頭を下げると何も言わずによそってもらったおかずを食べた。どうやら母と一緒に入ってきた家政婦が作ったらしい料理はどれも美味しかった。ソは数年ぶりの家族との食事を思っていた以上に楽しんでいる自分に気づいた。母は穏やかな顔をしていてソが家を出る前に感じていた威圧感など感じられなかった。その優しい態度や笑顔にソはもしかしたら母は自分との関係を修復しようとしてソを家に呼んだのではないかと思い始めていた。
「そう言えばソや。ヨから今日はお前も会議に出席していたと聞いたのだけど。」
ソは母のその言葉に顔をあげた。
「ええ。」
「ならお前も聞いたのではないの?次期会長候補の件について。」
ソはその場の空気が変わっていくのを感じながら答えた。
「ええ、聞きました。」
「ならお前はどう思ってるの?次期会長候補を投票で決めることについて。」
隣でジョンが驚いて声をあげた。だが、ソはそれを無視して言った。
「特に何も。」
母は空だったソのグラスに水を注ぐと、自身のグラスにも水を注ぎながら言った。
「私はね前からワン・ムを次期会長にするっていうあなたのお父様の考えをどうかと思ってたのよ。」
母はグラスに注がれた水をひと口飲むと続けて言った。
「ワングループの会長の息子はあなたたちなのよ、それなのに次期会長をワン・ムにするなんて。」
「仕方がないのでは?前会長が望んだことですし。」
ム兄さんが会長になることになんの抵抗もないソが言うと母はどこか冷ややかな笑みを浮かべて言った。
「前会長はもう亡くなったのよ、彼の言葉に従う必要はないわ。それに今の会社をワン・ムがまとめられるとは思わないわ。」
「でも前会長の言葉に従わないと社内や一族のものから反発が起きてしまいます。」
ソが言った。
「反発するのは一部だけよ、ワン・ムが会長になることに反発している人も多いと聞くわ。社内投票で次期会長候補を決めた方がよっぽど公平だし、会社のためになる。」
母の隣で静かに食べていたヨが顔を上げてソを見た。
「では誰が次期会長に相応しいとお考えで?」 ソが聞くと母はテーブルの上に置かれていたヨの手を取り、その手を握ると笑みを浮かべて言った。
「もちろん、あなたのお兄さんが相応しいと私は考えているわ。あなたもそう思うでしょ。」
自分の予想は当たっていた。
ソは分っていたことなのに頭に血がのぼってくるのを感じた。
「兄さんを支持するように約束させるために私を呼んだんですか?」
ソが自分の疑惑を率直に伝えると母の顔からは笑顔が消え、真剣な表情でソを見た。
「まさか。ただあなたがどうしてるか気になって、ほらしばらく会ってなかったし。」
ソはその言葉を聞くと持っていた箸を机に置いた。横に座るジョンは驚いた表情で母を見つめていた。
「社内会議でユ叔父さんがム兄さんを次期会長の座から引きずり下ろそうとしてる時にですか?バカにしないで下さい。」
ソはそう言うと立ち上がった。自分を家に呼んだ母の意図を確かめた今、ソにはこれ以上長居するつもりはなかった。そんなソを見る母親の目つきは以前のように冷ややかなものになっていた。
「申し訳ありませんが、期待には添えません。」 「どういう意味?」
ソの言葉に母が声を荒げた。
「ヨ兄さんを支持するつもりはありません。」 「なら誰を支持するつもりなんだ?ワン・ムか?それとも自分が立候補するつもりか?」
ヨがソを冷かすように言った。 テーブルから離れ、ソファに置いてある鞄を手に持ってソは言った。
「だったらどうします?」
「バカ言わないで。ヨを差し置いてあなたが会長になれるとでも?」
母の言葉に激しい怒りを感じながらソは言い返した。
「会社の利益になるようなこと何一つできない兄さんよりも僕の方がよっぽど会社のためになることは確かですよ。」
ソの言葉に母が何か叫んだ。だが、すでに居間を飛び出して怒りでいっぱいいっぱいになっていたソには母が何を言ったのかは分からなかった。
「じゃあ、やっぱりヨ兄さんは次期会長に立候補するつもりなんですか。」
皿に並べられたキンパを食べながらペガが言った。
「ああ。」
「じゃあもしかしたら社長と兄さんの母親が‥」
ペガが何を言いたいか理解したソは頷いた。 「ユ社長の裏で糸をひいているのはうちの母親だろう。反対してるのもうちの母親の親族の社員だろう。あとはウォンとその父親あたりもあり得るな、ム兄さんが次期会長になることに不満を持ってたし。」
「でもだとしたらだいぶ面倒なことになりましたね。」
「ああ、あの母親のことだ。ヨを次期会長候補にするためにはなんでもするぞ。」
「だとしたら兄さんも、相当覚悟が必要ですよ。」
ペガの言葉にソはため息をついた。
「あぁ、なんとかしてム兄さんの味方を増やさないといけないからな。」
ソの言葉にペガは驚いたような顔をした。 「え、兄さんも立候補するんじゃないんですか。」
ソはペガの言葉に呆れながら言った。
「するわけないだろう。母さんにはただムキになって言っただけだ。俺はム兄さんを支持するつもりだ。」
「‥なんだ。応援するつもりだったのに。」 そう言うとペガはリモコンをとってテレビをつけた。 ペガが面白い番組を探して次々とチャンネルを変えるのを見ながらソは胸ポケットからケータイを取り出した。 彼女から送られてきた文面を見ながらソは悩んでいた。
ソはまだコ・ハジンに返事をしていなかった。なんて返事をすればいいのか分からなかったのだ。 ソは本当はすぐにでも彼女に会いたかった。だが、すぐにでも会おうとするのはいくらなんでも早急すぎるのではないかと思ったし、彼女のことを考えるだけで自分らしくないことを考えたり、考えるよりも先に体が動いてしまう自分が怖かった。
「そういえばコ・ハジンが誰だかまだ教えてもらってませんでしたね。」
見上げるとペガが向かいから物珍しそうにソを見ていた。ペガが見ていたつけっぱなしのテレビではニュースキャスターが有名企業の重役の汚職疑惑を取り上げていた。
「そんなに聞きたいのか?」 ソが聞くとペガが頷いたのでソはため息をつきながら会議の前に高麗展であったことを話した。 ペガはソの夢のことを唯一理解してくれる人物だった。ペガとソが打ち解け合うきっかけとなったのは中学生の頃に実家に帰省した際に嫌々参加した一族の集まりがきっかけだった。 ソは自分がなんかまたしでかすのではないかと警戒して自分を見る母の視線が嫌になって集まりを抜け出して会社の中を探索していた。なんとなく入った部屋に飾ってあった親戚の一人が所有している高麗時代の庶民の暮らしを描いたという絵画に見入っていたソは誰かに声をかけられた。それがペガだった。ソは親戚同士の集まりで何度かペガを見かけたことがあった。ペガはいつも隅でジョンやウンと一緒にいたのでお互いに今まであまり話したことはなかったが、どうやら絵に見入っているソを見てペガはソが美術に関心があるのだと思って話しかけたのだった。 最初こそは高麗時代の絵画の横に置いてあった西洋の絵画について熱心に語るペガに戸惑いを感じたがだんだんと話しているうちにソはペガと一緒にいるのが楽しくなっていた。いつもは帰りたくて仕方がないのに二人で嫌いな親戚の嫌味を言い合ったり、会社を探索するのが楽しくて帰るのが嫌になっていた。それ以来ソは実家に帰省するたびにペガと会って遊ぶようになった。父親の不倫相手との間に生まれ、父親に引き取られたペガはソのように家族の中で疎外感を感じていてソのことを誰よりも理解してくれた。ペガが夢のことを話しても決してバカにしなかったし、一緒に高麗について調べてくれたりもした。ソにとってペガは友であり、家族でもあった。 だからこそペガにコ・ハジンのことを話すのにためらいは感じなかった。 ソの話を聞き終えるとペガは少し考え込むと言った。
「でそのコ・ハジンとはいつ会うんですか?」 「会っていいと思うか?」
ソはなんだか喉が渇いてテーブルに置いてあったグラスを手に取り、水を飲んだ。
「いいんじゃないんですか?会ってお礼がしたいって言われたんだし。ちょっとオーバーな気もするけど、兄さんにとっては一目惚れした女性に会うきっかけにもなったんだし。」
その言葉にソは思わず口に含んでいた水を吹き出した。
「ちょっと何するんですか!?」
急いで席を離れて布巾を取りに行くペガにソは言った。
「どういう意味だ。」
ソの問いにテーブルを拭きながらペガが言った。
「そんなに気になってしまうってことは一目惚れしたんじゃないですか?兄さんらしくないけど。」
一目惚れだと?ソはそう言われて彼女と会った時のことを考えた。違うと思った。 彼女と出会った時に感じた感情は一目惚れというには複雑すぎるし、大きすぎると思った。 それにソは初めてあったのに彼女をずっと昔から知っていたような気がしてならないのだった。 そうペガに伝えるとペガが首を傾げて言った。
「もしかしたら彼女が夢に出てきた誰かと似てたとか?」
そう言われてソは考えた。いつからかソの夢には色んな人が出てきた。会ったことのない人もいたが驚くことに夢に出てくる人のほとんどがソのよく知る人たちだった。韓服を着たヨやジョンや母、そして王のような装いの父が夢に出てきた時は衝撃的だったし、自分と同世代のいとこや親戚がソが夢で見た姿と同じように成長していくのは奇妙だった。だが、どんなに記憶の中を探っても彼女が夢に出てきたことがあるように思えなかった。 ソが黙っているとそれを見かねてペガが言った。
「とりあえずもう一度会ってみたらどうです?そしたら何か思い出すかもしれないし、兄上も会いたいのでしょう?」
そう言われていつの間にか奪われていたスマートフォンを前に突き出された。 ソは迷いながらもスマートフォンを受け取って彼女への返信を打ち込み始めた。