今思えば彼女と過ごしていて違和感を感じることはよくあった。
大体彼女は始めて会った時から他の女性と比べるとどこか異質だった。茶美園で女官として働きだし、尚宮となってから彼女からはもう以前のように異質さを感じることはなかったけど一緒に過ごしていると時折その異質さがでてきた。
それは彼女が話していた聞いたこともない遠い国の昔話だったり、一体どこで教わったのかも分からない知識だったり、彼女の口から出てくる聞いたことのない言葉だったりした。
不思議に思うことは多かったけどスのそういった所をソは好んでいたし、あまり気に留めたこともなかった。
あれはそう今は亡き皇后の母親がチェリョンがスの部屋から取ってきたのであろう見知らぬ言葉で書かれた書物をソの机に叩きつけ、スとの婚姻を考え直すようにソに迫った後、スに求婚し断られ、王の座を守るためにヨナとの婚姻を決めた翌日のことだった。
その日は朝から昨晩のことが頭から離れなくて、スの泣きそうな顔が何度も頭にチラついてソは執務に集中できず、気づいたら執務を放棄してスの部屋に向かっていた。部屋を飛び出し、スの部屋に続く廊下の前に立つと警備にあたっている兵がソに気づき、膝をついて挨拶してきた。
ソは兵に向かって頷くと廊下を進み、スの部屋に向かった。
スの部屋の前に立ち、扉を開けようとしてソはふと中から歌のようなものが聞こえてくるのに気づいた。近づいて耳を扉に押しつけるとやはり中から歌のようなものが聞こえてソは歌を歌っているのがスであることに気づいた。
だが、ソにはスが一体何の歌を歌っているかは分からなかった。それにじっと聞いているとソはスがどうやらソが全く知らない言葉のようなもので歌を歌っていることに気づいた。ソが音を立てないようにゆっくり扉を開けるとそこには座って紙に筆で何かを書きながら歌を歌っているスの姿があった。
ソはそんな彼女の姿を見つめながら自分に気づかず小さな声で歌い続ける彼女を見つめてふと怖くなった。
彼が聞いたことのない言葉で彼が知りもしない歌を歌う彼女を見ているとこのまま彼女がどこかに行ってしまうのではないかと思えてきたのだった。
ふと歌声が聞こえなくなり、スが自分のことを呼ぶ声が聞こえた。
「・・陛下?」
歌うのをやめて、後ろを向いたスは不安そうにソを見ていた。
「どう知ったんですか?こんな時間にここに来るなんて。」
そう言いながらソはスが先ほどまで何か書いていた紙を裏返して机の上に置かれていた他の紙の上に置いたのを見た。
「‥なんとなく様子が来てみたんだ。それよりスや、何の歌を歌ってたんだ?聞いたことのない歌だったし聞いたことのない言葉のようなもので歌っていたが‥。」
そう言うとスは一瞬固まってソから視線を逸らした。
「‥自分で適当に考えて作ったんです、あまりにも暇っだったので。どうでしたか?」
そう言うとスはソに笑顔を向けてきた。ソはスの目の周りが赤くなっていることに気づき、もしかしたらスがさっきまで泣いていたのじゃないかと思い、胸が苦しくなってス引き寄せて抱きしめた。
「‥陛下?」
「綺麗な歌だったよ。何を言ってるのかはさっぱり分からなかったがな。」
そう言うとスはクスクスと笑って体を預けてきた。
彼女の体の暖かさと重みを心地よく、感じながらソは言った。
「少し疲れたんだ。一緒にお茶でも飲まないか?」
そういうとスは顔を上げて手のひらでソの頬に触れた。
「大丈夫ですか?」
目を閉じて彼女の手の温かみを感じながらソはスの言葉に頷いた。
「ああ、大丈夫だ。」
スは何度かソの頬を撫でるとソから体を離し、茶の準備に取り掛かった。
ソはスの様子を見ながらさっきまでスが座っていたところに腰を下ろした。机の上には筆と紙が何枚も積まれて置いてあった。
ソが何となく手を伸ばして一番上に積まれていた紙を取ろうとするとスが横から手を伸ばして紙の束を机から取り上げた。
「今片しちゃいますね。」
スはそういうと紙の束を近くに置いてあった木箱の中にしまいだした。ソがその様子を見ているとスが持っていた紙の内の一枚がスの手から離れて床に落ちた。そこに書いてあったのは皇后 ファンボが持ってきた今はソの部屋の箪笥にしまってある書物に書いてある文字と似たものだった。
「何を書いてたんだ?」
ソが聞くとスは紙を床から取り上げて言った。
「私ずっと前から自分の考えや思い、その日の出来事なんかを紙に書いてるんです。でもはいくら陛下でも見せませんよ。女の子の心は秘密に満ちた深い海のようなものなんです。だからここに書いてあることは誰にも見せません。あっ、隠れて見ようとしたって無駄ですよ。見ても陛下には分からないようにしてありますから。」
そう言ってどこか寂しげにスは笑った。
「もう女の子と言える歳でもないだろう。」
あの満面の笑みを見せて欲しくてソがからかうとスは怒りだした。
「ちょっと陛下!!どういう意味ですか、それ?」
あの紙がどうなったのかソは知らない。だが、きっとスが皇宮を出る時に持って行ったのか、処分してしまったのかどっちかであろうとソは思っていた。
だが、チェリョンが盗んだスの書物は今だにソの手元にあった。あれから10年以上経ってもう何度もソはその書物を開いてはスの書いた得体の知れない文字を眺めていた。だがいくら眺めてもソにはそこに何が書かれているのか分からなかった。
“女の子の心は秘密に満ちた深い海のようなものなんです。“
彼女の秘密とはなんだったのだろうか。彼女は何を思っていたのだろうか。
自分にはまるで理解できない文字を目で追いながらソは何度も同じことを考えた。
“スお嬢様はこの世の方ではないのでは。“
ジモンの言葉は嘘ではない。
ソが時々彼女に感じた異質さや今ソの手元にあるスの遺品、父が残した調査書の内容、そして何よりもあの夢がその証拠だった。
もしここに書いてあることが少しでも分かればあの夢のことが、あの見たこともないような衣装を衣装を着て泣いていたスのことが何か分かるかも知れえないのに。
ソはため息をつくと本を閉じて椅子の背もたれに身を預けた。
目を閉じてスの姿を頭に思い浮かべえているとドアの外から自分を呼ぶ声がした。身体を起こし、姿勢を正すと、外で待っている従者に中に入ってくるように言った。
戸を開けて中に入って来たのはソが手紙でのやり取りをする時に頼っている初老の従者だった。
初老の従者はソのもとに近づいてくるとジョンから送られてきた手紙を差し出した。
ソは手紙を前に心が浮き立つのを感じながら手紙を受け取ると従者を下がらせた。再び一人になるとソは慎重に封筒を開けて中から薄桃色の可愛らしい封筒を取り出した。可愛らしい字で“ワン・ソ叔父様へ“と書かれた封筒を前に自然にソの口元から笑みがこぼれた。
最後にあったのはもう半年も前になるがソはずっとセウルと手紙のやり取りを続けていた。もう12歳になったセウルの書く字は手紙のやり取りを始めた頃に比べると格段に上達していた。
3年前、9歳になった時にセウルはソがこの国の皇帝であることを知った。
スの命日に皇宮にやってきた時にソを前にどこか緊張した様子でいたセウルを不思議に思い、どうしたんだと尋ねた時にセウルから帰ってきた言葉をソはよく覚えていた。
「叔父様は皇帝陛下なの?」
いつかは自分がただの叔父ではないとこの子に知られる時が来ると分かっていた。だが、実際にその時が来たらどうするのかなどソは考えていなかった。
「ああ、そうだよ。」
「なんでセウルには言ってくれなかったんですか?」
顔を上げて自分を見つめるセウルの澄み切った瞳を見つめ返しながらソは返事に困ってしまった。
黙っていたのは怖かったからだ。もし自分が皇帝だと知ったら彼女も他の人間と同じように彼を恐れるようになってしまうのではないかと思った。そしてまたソ自身も王で居続けることからの休息が欲しかったのだ。
ソは言葉を選びながらそんな自分の思いを伝えた。
「セウルを怖がらせてしまうのではないかと思ったんだよ。それに自分のためでもあるんだ。ずっと王でいることは疲れるから王ではない姿で誰かに接したかったんだ。」
そういうとセウルは少し困ったような顔をしたが慌てて言った。
「セウルは叔父様が皇帝陛下だからって怖がったりしません。」
「本当か?」
ソが聞くとセウルは首を大きく振って頷いた。
「・・はい!!ちょっと緊張しますけど怖がったりなんてしません。」
ソはその言葉に笑みを浮かべると、セウルを連れてゆっくりと歩きだした。
しばらく沈黙の中歩いているとセウルがソに聞いた。
「皇帝陛下のお仕事は大変なんですか?」
「楽ではないな。色々なことを考えなければならなくてあまり気が休まらない。」
「だから疲れちゃうんですか?」
「・・ああ。」
「みんな叔父様のことを怖がってるんですか?」
「ああ。王は上に立つ人間として時には残酷なことをしなければいけないし、弱ってる姿を見せてはいけない。だからみんな私を恐れるようになって行くんだ。」
「じゃあ、皇宮には叔父様のことを怖がらない人はいないの?友だちは?」
セウルの言葉にソは面食らってしまい、足を止めた。
「・・いないな。」
ソがそう言うとセウルは視線を下げて足元を見つめた。
ソがそんなセウルの姿を見ているとしばらくしてセウルが顔を上げて言った。
「でもここに友だちがいなくても叔父様は一人じゃないでしょう?だってセウルたちがいるもの。」
"大丈夫です。だってソ皇子様がいるもの。"
いつかの彼女の言葉が頭の中をよぎり、ソは手を伸ばすとセウルの頭を撫でた。
指の先がソがスに送ったかんざしに触れた。
「・・ああ、そうだな。」
ソがそういうとセウルは微笑んだ。
その後の帰り際にセウルは今後も手紙を送っていいか聞いてきた。ソがいつもセウルからの手紙を楽しみにしてるから今までのように送って欲しいと頼むとセウルは喜んで頷いた。
そしてこの3年間、ソとセウルは数え切れないくらい手紙のやり取りをした。手紙を入れていた小さな箪笥の引き出しはいっぱいになり、ソはセウルに新しい手紙を入れて置くための木箱を送ったばかりだった。
ソは桃色の封筒から紙を取り出すと静かに読み出した。そしてしばらくすると眉をひそめた。
いつもは最近あった出来事や家族のことについて書かれているのに今日の手紙はそうではなかった。手紙には相談したいことがあるから皇宮に会いに行っていいかとだけ書かれていたのだった。
‥何かあったのだろうか?
ソは不安を感んじながら急いで筆と紙を掴むと返事を書き始めた。
ソの頭の中はセウルの事でいっぱいになっており、その日予定されていた正胤との面会のことなど頭の中から消え去っていた。
そしてその日皇后とともに皇帝陛下を待っていた正胤のもとに光宗が訪れることはなかった。