自己信頼の効用は何か
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自分を信頼できるから、
自分で選べる
その先の「結果」への執着もない
=結果を受け入れられる
・選択すること
・行動すること
・意図(イメージ)すること
このそれぞれの質を磨くと、結果も当然その質に伴っていく
(スグに、完璧に、はエゴちゃんの幻想
たまにイベント的に起きることもあるけど)
何かやってみようと思う時、
エゴちゃんはまず「結果」を目指して
現時点からのルートを思考しようとする
途端に、無理な気がする
それでもなんとか、
選択、行動、意図を繰り返したら
物事は動いていくけど
ルートをエゴが決めてしまう分、
非常に難易度高めのゲームになる
(それはそれで、学びだから
良し悪しではなくて、どれも経験)
私のキャラクターの人生の場合
人生の前半は難易度高めゲームをやっていた
直感とか感情、感覚的なものは本来強いのに
そっちに基準は置かずに、
論理的思考をバリバリ使っていた
自分の人生の責任は自分にあるという気持ちが強くて、自分に色々課していた
あれもこれも抱えて、
無理、苦しい、とやっていた
その時はその視座を十分やったと思う
エゴ(肉体)のキャラクターか、魂(スピリット)のキャラクターか、体験中(特に人生初期)はどっちの性格か分かりづらいけど、
何でもMAXまで味わいきる、満喫したい
自分の限界に興味がある
何なら限界の先の世界にワクワクしている
だから、変化は楽しみでもある
気づき→成長(変化)が純粋な喜び
それは根底での本質的な意識に感じる
でも、人生の途中(フェーズ1後期)から
強制終了のように、それまで通りに生きられなくなった
自分の意思ではどうにもできず、
コントロールしきれない感覚に陥る
スピリットの大胆さやMAXまであらゆる感情や体験を求めにいく性格に、エゴが適応障害を起こしているような
自分のはずなのに、自分の意図どおりに
動けなくなってしまった肉体に
何だか自分であって自分でないような
不思議な感覚を感じたりした
自分の思った通りに動かせることは
当たり前だと思ってたのに、と
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今、振り返ると
肉体が動かなくなったのは
当時はある日突然、急転直下だったけど、
私の感情や感覚が長年かけて
水面下でずっと積みあがっていき
ある日、思考のアスファルトを突き抜けてきたのかもしれない
これまで水面下だったものが
表出してしまって、存在感をあらわした
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その時も
ぁぁ、こんな風な形になるんだなぁ
みたいな、自分の身に起きたことを新しい事象として発見を楽しむ視点が
常に隣に在った
(余談だけど、今イメージ的に隣在(隣に在る)という響きが浮かんで、そんなのあったっけ?とリンザイを検索したら「臨在」と出てきた
臨在・・・神は不可視ではあるが、常にその場その場に存在する。(キリスト教の用語らしい)
こっちでも、当てはまるなぁと思う)
エゴとしてのショックや生きづらさも感じつつ
一方で、その経験を興味深く感じる意識がある
誰かと共感とか、しやすい話しでもなく
また誰か(外側)と共感し合いたいという感覚はあまり湧いてこなかった
日々、ただ過ごす
そこで感じることをただ見つめる
焦燥感、こんなでいいのかという焦り、年齢を重ねていく、無駄、非生産的、無意味..etc
でも、どんなに表層的にその状態に対するネガティヴな評価が出てきても
それは、どこから誰の目線で出てくるんだろうと
表層が少しずつ浮き上がってきた(剥がれ出してきた)時期かもしれない
ネイルを剥がすときもアセトンに浸して少し時間を置く
そんなタイムラグだったかもしれない
腹の奥の奥では、全く違う世界が広がっていて
現状の経験をまるごと受容するような
そんな感覚が、固い岩盤の向こうから多少表層ネガティヴを緩和して
なんとか生きられるギリギリの濃度に保たれていたのかもと思う
(ギリギリMAXが好きだから、、
多分それを誠実さだと思ってるし
エゴとしては本当にやめてほしいけど)
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その限界を追求するスピリットの姿勢は
幼少期から強く感じていて
この人生を本当に大切に生ききろうとしている
人生への愛みたいなものを強く感じていた
"限界まで"を求めるというのも
余すところなく、やりきりたいから
だからなのか、感情も味わい尽くす仕様になっている気がする
エゴとしては何度も限界です!と
人生(スピリット)に怒りも湧いたけど
山の景色は登ってみないと分からないもので、
(分からないというところに希望が詰まってる)
まだまだ中腹にもきていないかもしれないけど、
今の位置で振り返ってみたら、
そんなエゴやらスピリットやら私とわちゃわちゃやってきて、ここまできて、
実は虎視眈々と?着実に"自己信頼"という最強の下地をつくっていたのでは..と、じわじわ気づきつつある
スピリットの計画に沿って、
エゴを時には身体だけ生かしとこうみたいな
(中身はお休みが必要な)時期を超えつつ、
・選択
・行動
・意図
の、要である「選択」の下地は
"自己信頼"だと
今、腑に落ちている
自分を信頼できる、
信頼できる=愛している(感覚)
信頼できるというのは、例えばこの人の言う通りに馬券を買ったら勝率が高いみたいな
目先の「結果」目当ての信じて頼るではなくて
"人智をちゃんと尽くしてくれる"信頼
というと大袈裟だけど、
この人が選んだ結果がどうであっても、それを受け入れられるだろうという信頼
そうやって選択できれば
目先の物事に惑わされない
外側が存在しない世界で自由に創造できる領域
自分が最も自分をそのまま表現できる領域に
生きられるようになる
そして、その内面がそのまま
現実に投影されるようになる
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うまく表現できたか分からないけど、
編集せず、
記録