朝から、休日らしく
1滴ずつ拘りのコーヒーを淹れるように
自分の真ん中瞑想、
理想を抽出💎
理想(仮説)→生きる(立証)→結論(ある点での)
→精査して、仮説(机上の空論)をリアルに近づけていく
一連の流れがあるとして、
はじめの「理想」の部分
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でてきたこと、「理想」
今、できることをしよう
目の前に、お手伝いが必要そうだと思うことがあれば、申し出て
頼まれたら、一生懸命取り組む
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これが浮かんだのは、おそらく昨晩の仕事から
自分の仕事が終わり、
それも一つの納期を終えてやっと終わった日、
この時間ならまだ飲食店もやっているし
ゆっくりしにいこうかな
とちょっとよぎったが、
目の前には月末の納期に追われているA氏
この時間に数字の計算に追われているらしい
(私的に、夜の計算はダメダメ)
顔に「助けてくれ」と書いてあった
その後、A氏はZOOMmtgに入り、
帰ろうと思えば帰れるタイミングがあった
ここで、自分の中で冒頭の「理想」(仮説)に従った選択があり
約1時間のZOOMが終わるまで待って
「エクセルどれですか?」と申し出た
コンビニで適当な食べ物を買って
できることはやって、深夜に帰宅
(良かった点)
・手伝わせてもらったことで、勉強になることがある(自分は使わない新種のエクセル関数を発見)
・できることをやりきった感覚は、心地よい
・助け合いは良い循環につながる感覚
→学び、成長、心地よさ、良い循環
(気になった点)
・金銭的な報酬がもしなかったら、同じことができるだろうか?
仕事をした分はきちんと請求する、それは当然のことだとは思う
日本人は特にお金を受け取るのが苦手な人が多いというが
一応、独立してからは、
会社が管理してくれていた頃と違って、自分で金額を計算して請求する形態に変わり
自分が請求しなければ、誰も自分に代わって請求してくれない
なので、自分の行為(仕事)、価値を
瞬時に金銭に換算する
その「損得勘定」機能は確かに大切
自分で管理するなら尚更
ただ、そこに今、制限を感じている
イメージとしては、
動いたら、脳内自動計算機にチャリン♪と
「はい、今ので◯◯円」、「よし」
みたいな
これが自動化されていくことに
一抹の危機感がある
これは、
「報酬なしで動くこと」が
この自動損得計算機能の強化により
阻害されてしまうのではないか
という危機感
子供に絵を描かせる心理学の実験では
絵を描いて、報酬を与えたグループの子供は
与えなかったグループの子供と比べて
ただ、絵を描くことが明らかに減るという
本来、ただ自己(心の)表現として
ただただ絵を描いて、その表現自体を楽しんで
出来上がったものをみて楽しんだり
そこに金銭が発生しなくても、
いやむしろ金銭が絡まないからこその豊かさというか
私は幼い頃から絵を描くのが好きだったが
描く前の真っ白な画用紙をみると
この真っ白なものに、
自分の手で価値を与えられる
どんな風にも描ける可能性にワクワクして
うまく描けなくても、それがまた面白かったり
更に物事が進んで、真剣に絵と向き合ってみて
真っ白の画用紙の前で絶望してみたり
そんな一連のことが、本当に豊かだなぁと感じる
様々なことを感じられる
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小さい頃、よく考えていた
「すべてのものには共通項があり、つながっている」
算数の教科書の「比例」で、小さいものが同じ比率で大きくなる表記をみたり、
後にフラクタル構造を知ったときにも
これを思い出した
ミクロはマクロであり、逆も然り
本質的には同じである感覚
小さい頃の感覚でいえば
例えば、一枚の画用紙を目の前にして
絵を描くということと向き合ったとする
そこには向上心とともに生まれる現実とのギャップや、外向きの意識で自己否定に陥ったり
アイデンティティを求めて独自性を追及したり
いわば人生の縮図のような体験ができる感覚
ある人にとっては、それがスポーツかもしれないし、楽器を弾くこと、人に話すこと、
物を作ることかもしれない
その対象は人それぞれだけど、
小さい頃、それは勝手にやっていた
それでお小遣いがもらえるわけでもなく
ただ、楽しいから
最初からうまくできないけど
できない、やれない、でも楽しい
どうしたらもっと上手くなるかな?と探求するのがワクワクする
そして、少しでも成長できたら嬉しい
そんな風に、喜びを得ていた
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何か新しいことをはじめるとき
「これは、やりたい」、やる意義を感じる
そしてイメージしてみる
仕事として回り始めた後のイメージをする
そこには報酬も発生しているだろう
でも、はじめる時には
どれだけ行動しても、そこに報酬は伴わない
そこに、長年のサラリーマン経験や時間を切り売りする感覚が染みついていたら
思考停止に損得勘定計算機の
「損です」という信号(感覚)に従ってしまったら
何も新しいものは生み出していけない
意義はあるがすぐに利益がでないことに取り組んでいけない
極端かもしれないが、そんな危機感
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その「損得勘定計算機能」は必要に応じて培ってきた、有用な自分の電卓(道具)であって、
価値観ではなかったはずだ
だからその電卓が瞬時に叩き出す
「これは得です」「これは損です」に
思考停止に従う必要はなく、
その情報は正確に踏まえた上で
損であっても、これはやりたいと
自分が主体になって決める
その為に、この電卓の存在の意識化は大切
もし、この電卓を無意識下に使っていたら
何かをやろうとしたときに
一道具にすぎない電卓が「損です」と出したことを、自分の直感だったり価値観のように感じて
そのまま選択、判断、行動に直結させてしまったら、
目先の損得で判断する人生になってしまう
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危機感は、自分の真ん中からのお知らせ、
無意識の意識化を促すサインで
自分の感覚にフォーカスしていくと
色々と教えてくれる
自分の人生の主体は
自分(もっといえば自分の真ん中、本質、核..)
そして道具に求められるのは機能性や正確さであって、道具に信念はない
信念をもった自分が道具を使うのだ
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(オマケ。傍論、政治的)
これは傍論だけど、
政治について、古代ローマの本か何かで読んだ
人気がある人、お金がある人、知恵がある人がタッグを組んだ話しが印象深かった
政治も本質的には、政治家になる人がすべてを勉強し尽くして詳しくある必要はなく
政治家は信念があり舵取りができる人
力強い言葉でリーダーシップがある人
であって、各分野の学問はそれぞれその道に邁進する学者がブレーンとなる
政治においては、政治家が主体で学者は知恵袋のような、その意味で道具(知識人、生き字引)として用いる
この時に学者は正確である必要はあるけど、政治を判断する立場にはない
今の国会をみていると、
本来は政治家の信念に基づく舵取りを受けて
立法府の事務方として働く官僚(上記の意味で、道具)のはずが
政治家自身が損得勘定計算機に判断を委ね、
主体となり得るだけの信念も持たず
官僚の作ったカンペを読んでいる
信念がないと、優秀な損得勘定機能に人生(政治も)を譲ってしまうことになりかねない
このときの損得勘定の「優秀さ」は、「正確さ」におけるものであって
損得勘定機能には「長い目でビジョンを描く」とかそんな機能はない
自分にとってのビジョンは
自分の真ん中しか分からないから
今日の「危機感」は
自分の信念、軸、本質、核、芯、、
それを持たずに生きることへの危機感かな
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