平成の時代から地球変動と異常気象で
兎に角災害が多くなった。
地震に津波に水害に、せめぎ合うプレートに
乗っかっている日本ならではの、避けられない
宿命をまざまざを見せつけられた気がする。
昭和の時代は皇族の方々はもう雲の上の
ような存在。
それが平成になり、被災者の方々にお見舞いの
訪問をされる姿を見るにつけ、我々日本人は
皇室をより身近に感じるようになってきたのでは
ないかと勝手に思っている。
そして災害は令和の時代になっても、
地下から空から、日本列島を襲い続けるだろう。
私の住んでいる熊本県でも、県北は地震、
私の住んでいる県南では水害と、立て続けに
「何でこうも熊本県だけ?」と呪われたように
集中攻撃を受けた。
水害は大変だった。
津波は別として、家だけが潰れる地震より
何もかも泥だらけになる水害の方が遥かに
悲惨だとは私の感想。
鉄道や道路などのインフラは滅茶苦茶。
家も何もかも押し流され見るも無残。
復旧もコロナ禍で中々進まない。
PTSDなのか、精神病院の待合室は
患者でどっとあふれた。
個人的には、災害でやられたところに
更に抗うつ薬やベンゾを盛られて
二重三重の地獄へと入り込むのかと
思うと「止めた方がいいですよ!」と
要らぬお節介をしたくもなった。
前置きが長くなったが、平成は
精神医療が大きく変化した時代でもあった。
私が子供の頃、昭和の時代は
精神科のことを「脳病院」と言って
人々から恐れられていた。
子供同士でいじめの言葉に
「~は脳病院に行ってしまえ!」と
使っていたくらいである。
それ位、昭和の時代は精神科とは
特別感があった。
ところが平成に入り、変な意味で
大革命が起きた。
製薬会社のなりふり構わぬ
疾病洗脳キャンペーン。
(個人的には、科学で立証出来ない
疾病を宣伝するべきではないと思う。
脳、精神状態とはデリケートな問題であり
疾病との境界線が曖昧で難しい。
行けば医者は薬が必要かどうかを
見極めず必ず薬を処方する。
人々に誤解を与える倫理に反する行為は
取り締まるべきである)
首都圏の駅前の一等地には、サロンかと
見間違うようなオシャレな横文字の
「メンタルクリニック」の開業ラッシュ。
精神科への敷居がぐっと下がった。
そして「悩める」人々が駅前の
メンタルクリニックにどっと押し寄せた。
精神科医たちは、悩める人々に
躊躇なくベンゾをばら撒きまくった。
病気でもない人達を薬漬けにしていった。
後先考えず・・・
そして10年位経った頃、溜まるに溜まった
精神医療の被害者たちが、SNS革命と
共に、声を挙げ始めた。
名付けて「精神医療災害。」
医療業界もさすがの国も「これはマズイ」
と少しずつ意識を変化させていった。
(しかしまだまだ甘い)
派手な災害現場のヘリコプターが飛ぶ、
メディアは連日大騒ぎして報道する
「自然災害」とは対照的で、
「精神医療災害」は不気味なほど静かだ。
しかしどうだろうか、全世界的に見て
被害者数で比較すれば
どちらが上回っているのだろうか。
そしてどちらが、悲惨で残酷な人生を強いられる
のだろうか。
災害の被災者は、社会に認知をされ、国
からの救済も受けられ、周囲に同情されるだけ
遥かにマシだ。
皇族の方々も芸能人も文化人もこぞって?
精神疾患を公表する時代になった。
昭和では考えられないことだった。
しかし一向に進んでいないことがある。
「精神医療」が平成に一気に敷居が低くなった
ことによる弊害、ツケの検証、清算である。
公害も高度経済成長のツケだと言われている。
地球は生き物なので地震は仕方がないが、
豪雨災害も産業革命以来我々が自然を顧みる
ことなくCO2を排出して温暖化を進めてきたツケだ。
何かが不自然に急成長した時は、必ず「歪み」が生まれる。
精神医療産業もまた急激に市場拡大したことでの
「ツケ」が必ずあるはずだ。
それを責任あるものが、敢えて見ようとしない、
臭いものには蓋をしようとする姿勢が問題を
遷延化している。
「精神医療災害」―――それは静かに人知れず
拡大していく。
被害者は今日、明日にでも犬死の境界線上にいる。
しかし「救命ボート」はどこからも来ない。
地震に水害に公害(水俣病)に見舞われた
熊本県からの一被害者の叫びを綴った。