身体は生きているのだが、

精神はもう元の私ではない。

 

自己と感情の統制機能が損壊し、

常に私を支配していた「高等感情」

は失われ、人格が崩壊してしまった。

 

それは私の「死」を意味する。

 

「ベンゾ離脱で性格は変わらない」とか

いけしゃーしゃーと呑気なことを精神科医たちは

言うが、それはとんでもない話である。

 

場合によれば、人格を崩壊させその人を

殺してしまいかねない。

 

私は長い間、本来の自分とは違う自分に

違和感を感じながら生きてきた。

 

「性格の変化」と呼んできた。

 

しかしこの一年、私に起きたことは

「性格の変化」どころか、「自分の死」

そのものだったと理解した。

 

そして常に、いかなる時も、どの瞬間も

寝ている時以外、「自分の死」を

感じながら生きることの堪えがたい苦痛

を味わいながら生きて来た。

 

それがどれだけ辛いことか、精神科医たちは

どれだけ理解しているのだろうか?

 

脳の働きが以前とは全く違う。

 

私を常に支配していた「高等感情」は鳴りを潜め、

「これやりたい」「あっ、あれやりたい」「そうだ、あれだ」

のような、自己の欲求と低次元の衝動的な思いつきや

感情に支配されるようになった。

 

どこか行き当たりばったりで自己中なのである。

 

自分のことしか考えられなくなった。

 

一番トップに来るはずの「高等感情」が来ない…

 

何かどこか「ツルッ」とした感じ、表現が難しい。

 

自分を止める、確たるものがない。

 

押さえつけていたあの「漬物石」(理性)がない。

 

自分を上から「統制」している針がねがない。

 

情報をまとめ上げ、指令を出す司令塔が存在しない。

 

自分がどう転ぶか分からない不安定さと不安。

 

統制機能がやられてしまったので、ブレーキが効かない。

 

買い物を例にとると、「あっ、これ素敵」と思ったとする。

(買物は軽い例。実際は「選択」で誤ってばかりで、

人生や人間関係が破壊される脳の損壊)

 

しかし統制機能がしっかりしていれば、現実検討能力が

働き、「こんなもの買っても使い道がない」とか

「贅沢だ」とか「似たような物を既に持っている」とか

「お金がもったいない」とか理性がちゃんと物欲に

ブレーキをかけてくれる。(司令塔=中枢神経)

 

これがないのである。

 

「あっ、これ素敵」の感情が脳内一杯に広がり、アクセル

全開で買わずにはいられなくなる。

 

本来はケチでお金を殆ど使わない性格だったのに。

 

買物依存症、各種依存症はこの統制機能の脆弱さに

よると自己分析している。

 

本来の統制の効いたしっかりした自分を覚えているからこそ、

今のまとまりのない、統制の効かない、だらしない自分が

嫌で嫌でたまらない。

 

脳が構造的に変容したとしか考えられない。

(前頭前野=司令塔が機能しない)

 

再び元の自分に戻れるとは到底思えない。

 

私は死んでしまったのだ。

 

「下山日記」には、身体の想像を絶する堪えがたい

変化に絶望とあった。

 

私は人格の想像を絶する堪えがたい変化に

絶望する20年だった。

 

どちらが苦痛かと比べるのもナンセンスだが、

私はどちらかを選べと言われたら、

迷いなく身体を選ぶ。

 

人格の崩壊、自分が自分で無くなるとは、

その人の死を意味しているのではないか、

それくらい本人にとったら何から何まで苦痛だ。

 

私の「人間性」が奪われてしまったのだ。

 

私は顔に硫酸を掛けられ、滅茶苦茶に

なった方が余程よかったし、手足がもぎ取られ

不自由になった方が余程有難かった。

 

身体はどこも悪くないのに、生きようとしているのに、

脳だけが損傷し、本人にどこまでも「死」を突きつける

この不条理をどう昇華していけばいいのか、

未だ道は見つかっていない。