今週の大学院の授業では、マリア・モンテッソーリという女性の人物像について迫る時間が設けられています。
ヨーロッパで最初の女性医師の一人であり、大学教授であり、女性の権利を擁護する代表的な人物でもあったモンテッソーリ女史。
「私を見ないで、私の指し示す道を見なさい」
有名なこの言葉が示す通り、モンテッソーリ女史は自分自身が注目されることよりも、子ども達の教育のために全てを捧げた方でした。
イタリアの政府閣僚を務めた保守的な父と、学者家系に生まれた知的でリベラルな女性の母のもとに生まれたマリア。当時大学そのものが男性のものであったイタリアにおいて、授業を受けるために父親に付き添ってもらわなければならなかったこと、男子学生が全員席に着くまでは入室を許されなかったことを考えると、どれほどこの当時、女性が大学にて医学を学ぶということが大変であったかが容易に想像がつきます。
恋人との間に生まれた息子マリオを手放さなければならなかった理由は当時の時代背景にありました。既婚女性は子どもを産み育てるだけの存在であった20世紀初頭のイタリアでは、結婚という選択肢を選ぶことが出来なかったのです。未婚の母であることの社会的批判を負いながらも、田舎に送られたマリオを訪ねては、母親であることを明かせないまま時が進んでいきました。誰よりも子どもを愛し献身的なマリア・モンテッソーリという女性が、我が子を手放すという苦渋の決断をしなければならなかったことが、ただただ哀れでなりません。
お互い未婚のまま過ごすことを約束した恋人は後に結婚をし、傷ついたマリアは精神科医としての仕事を辞めすべてを投げ捨てます。けれども、猛烈なエネルギーで勉強に打ち込み出し、人類学や心理学の勉強も始め、3年後には人類学の教授として活躍を始めます。
人類学、心理学、医学、教育といった様々なバックグラウンドを持つモンテッソーリ女史だからこそ確立することのできたモンテッソーリ教育。教育界に革命を起こしたのも、当たり前のシナリオだったのかもしれません。
この成功に行き着くまでには、多くの苦労が存在し、そして実際行き着いた後も、悲劇がマリアを襲います。
それは、最愛の母の死でした。
涙を流すこともなく、感情を表すこともなく、20年以上も喪服を脱ぐくことがなかったと言われるマリア。
マリア・モンテッソーリという女性がいつも黒い服を身にまとっていたのには、そんな理由があったのですね。
彼女が生きた時代、最愛の息子と引き離され、最愛の母を失い、祖国も追われ戦争も体験するという何十もの苦労を経験してきたマリア。戦争が終わり、やっとアムステルダムの家に戻れることに現実味が帯びてくると、その何の心配もいらない状態を「苦労という刺激が足りない」と表現したと言います。
「苦労という刺激」
果たして、自分は「苦労」と呼べるほどのものを経験したことがあるだろうか。
この世のために何が出来ているのだろうか。
自らのコスミックタスクを全うするという真意を理解できているのだろうか。
色々な想いが交錯します。
やらなければならにことが山積みの中、課題の延長で、ふとマリア・モンテッソーリという女性について語ってみたくなりました。
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とても薄い1冊にも関わらず、未だに読了できていないこちら。
モンテッソーリ女史が79歳の誕生日を迎えられる8月にイタリアのサンレモで開催された第8回モンテッソーリ世界大会の講義録。するすると読み進めてしまうのがもったいなくて、ついつい時間をかけて活字を追ってしまいます。
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