帰宅すると、何やらこれからビーズ大会がスタートする様子の娘。玉留めをし、最初のビーズを通すものの、ビーズの穴が大きくてスルリと抜けてしまったようです。
「ママ、もう一回玉留めして。」
言われるがままに玉留めをしてしまいましたが、ここから母の猛省がスタート(笑)。3歳の頃は、常に頭にあったモンテッソーリ教育における「日常生活の練習」が、6歳ともなると、どこか知的分野ばかりに目が行き、こういった部分を軽視してしまうのです。
お願いされたときこそが、学びのチャンス。そう思って過ごしてきた幼児期のはずだったのに、ついつい目の前の小学校生活を意識するあまり、エンジンを全開にしていないと、娘の学びのチャンスの芽を摘み取ってしまいがちです。
■モンテッソーリ教育の「日常生活の練習」って本当に必要!?
どうして日常生活をわざわざ練習する必要があるのだろう。モンテッソーリ教育と出会ったばかりの頃は、とても不思議でした。でも僅かばかりの知識を得た今、この分野の重要性をひしひしと感じています。「日常生活」と言われると、どこか「日常」が強調される印象を受けますが、個人的にはこの分野の焦点は「生活」だと感じています。人間が生きやすくなるための練習をとことんするのが、日常生活の練習。手を使いたくて仕方がない子どもの欲求にぴったりとあった動作や運動がこの分野には多数含まれています。
大人の真似をすることで、それぞれのスキルを獲得していく子どもたち。自立への第一歩はここから始まるのでしょう。お箸を使うこと、お茶を注ぐこと、食器を運ぶこと、手を洗うことなどなど。大人には当たり前の動きを、しっかりと分析して子どもに分かりやすく見せるのが、大人の仕事です。
■母の提示の失敗点
当時の母の最大の失敗点は、「口」にありました。とにかく娘に分かりやすいよう、ついつい説明しすぎてしまうのです。今でも感じることですが、子どもは大人が口を開けば、その口に焦点がいってしまいます。本来見るべき提示を見ずに、ついつい口元ばかりを見てしまう。静けさの中で行う提示がいかに大事であるかということを、痛感しています。そして、第二の母の失敗点は「無駄な動き」にありました。子どもにとって最も分かりやすい、道で例えるなら、最短距離で行けるべき提示をするところを、どこか無駄な動きが多いため、遠回りとなってしまう。そんな失敗の連続でした。
そんな不器用極まりない提示でしたが、それでも、子どもは本来備わっている自己教育力を十分に働かせ、気がつくと上手にできるようになるものだということも、改めて実感。大人にできて子どもにできないことなんて、ないのだと感じます。そして母にとっての最大の収穫は、子どもの大いなる可能性に、気づいたことでした。
■子どもたちへ敬意を払いながら子育てをする
「まだ小さいから無理」
当たり前のように長年感じていた常識が、一気に覆させられた瞬間。
子どもに対して敬意を持ちながら子育てすることができるようになったのは、まさにこのモンテッソーリ教育があったからだと感じています。これから小学校へと上がれば、当然娘とぶつかる場面もたくさん出てくるでしょう。でも、いつも尊重する気持ちだけは忘れずにいたいと思います^^