世界に偉大なる新しい価値を生み出した彼らに共通しているのは、モンテッソーリ教育を受けて育ったということです。
モンテッソーリ教育とは、1900年代初頭、イタリア初の女医マリア・モンテッソーリにより確立された教育法です。
モンテッソーリ教育を正しく取り入れている園では、子どもは毎朝、指先や五感をとおして発達を促す教具(「お仕事」と呼ばれる)の中で「やりたいもの」を自ら選ぶことから一日が始まります。
通常、幼稚園や保育園での活動では決められたこと(歌や体操)をやらされます。モンテッソーリ教育の利点はたくさんありますが、この「自分の活動を自分で選ぶ」という行為が、脳の発達を促進し、子どもの自立を促すのだそうです。
成長の過程における子どもには発達段階と敏感期が存在します。例えば、子どもがシュガーポットの砂糖をスプーンですくって紅茶のカップにと落とす、という一連の動作を何度も繰り返したがるのを見たことはありませんか?
大人からは、ただやみくもに遊んでいるようにしか見えませんが、実はその子には「スプーンで何かをすくう」という指先の発達段階にあり、敏感期が訪れているためその動作に「はまって」何度もやろうとするのです。
ここで大人がそれをたっぷりやらせてあげられたらいいのですが、日常ではつい「もうしなくていいの」などといってスプーンは取り上げられてしまうものです。
モンテッソーリスクールでは、訓練された教師がその子どもが選ぶ教具から敏感期を察して、その子の「はまっている動作」を様々なバリエーションで何度も繰り返せる機会を提供します。
やりたいときにやりたいことを思う存分やらせてもらえるので、その子はその動作を最も効率よく習得します。そして、さらなる発達段階へと興味のままに移ることができるのです。
「おしごと(works)」と呼ばれる教具には、0~3歳のボタンの付け外し、紐結び、ろうとで水をコップ間で移動させる、箸で豆をつまんで皿に移すといったものから、3~6歳では数、図形、文字、世界地図、音、色などを利用したものが発達段階に合わせて用意されています。
こう書くと、お受験などのイメージと結びついてしまうかもしれませんが、モンテッソーリ教育は決して英才教育ではありません。
そもそも「教育学」ではなく「人類学」であると言われてます。
そもそも「教育学」ではなく「人類学」であると言われてます。
モンテッソーリ教育を受けた子どもたちには「大好きなことをやりながら、問題を見極め、それをどう解決するか考える」という思考回路が自然と備わるのだそうです。
そうそうたる「創始者」たちが、モンテ出身者として名を連ねているのも理解できるというものです。
かくいうわたしも、6歳まで実家でもあるモンテッソーリ教育専門の保育園に通っていました。(当時は教具の設備も充分ではなかったとは思いますが)
ある日、年長組のみんなで集まって先生を待っていたときのことです。いくら待っても先生が現れなかったので、わたしは「先生が来ないということは、わたしがみんなを園庭へ連れて行けば時間が無駄にならない」という解決策を思いつきました。
結果、わたしの誘導により年長組全員が園庭に出てしまい、後から来た先生を困らせることになりましたが。(笑)
わたしとしては「先生が来るまでただぼーっと待つ」という選択肢はあり得なかったのです。この「問題解決思考」に基づいた行動はモンテッソーリチャイルドらしいものだったそうです。
小学4年生になる姪っ子も、生粋のモンテッソーリチャイルドとして育ちましたが、彼女は世の中にあるものはたいてい「自分で創れる」と信じています。
最近の姪っ子は「コマ撮り映画」に夢中になっているらしく、粘土でキャラクターを作り、衣装や台本を友人と共同制作し、撮影をオーガナイズし、上映会まで催すという、一大プロジェクトのプロデューサーを務めているそうです。
もちろん、モンテッソーリ教育だけが素晴らしい教育法というわけではありません。どんな時代も、どんな環境でも、素晴らしいのは子どもたち自身ですから。
ただ、このページを開いてくださったのも何かのご縁、そして人生のサインかもしれません。
ただ、このページを開いてくださったのも何かのご縁、そして人生のサインかもしれません。
これからの地球で、「コスミックエデュケーション(宇宙の子どもたちへの教育)」という視点から、子どもが「誰かの役に立つために持って生まれた」才能を自由に伸ばすチャンスを大人も一緒に楽しみたい!