今日再び、「超大罪(ちょうたいざい)」を見た。

 

怠けて努力はしない。

しかし、人一倍不平不満を言い、文句を言う。

文句を聞き、改善しても同じである。不平不満と文句は止まない。

ある意味立派である。

実際、こうした人間に可能性はない。

 

侮蔑の念を抱かざるを得ない。

 

「されば、教えよ。然(さ)もなくば堪えよ。」

また、このマルクス・アウレリウスの言葉が頭をよぎる。

「堪える」しかない。

「堪える」からには、自分の糧にならねばならぬ。

それはどう言う道だろうか。

 

まずは自分の足らざるところを見つめよう。

汝自身を見つめ直す機会にするのだ。

他者に感謝しよう。

他者あっての自己である。

 

自然を見つめよう。

木は、動かない。

木は、静かに日々成長し続けている。

木は、誰かに認められようとか、主張しようとか、

誇示、虚栄などなく、

日々、静かに成長している。

 

人間は、部屋にじっとしていられない。

また、『学而(がくじ)』の

「人知らずしてうらみず」

世人が自分を認めてくれなくても、不平不満を抱かない

と言うこともなかなか出来ない。

 

我々はもっと、木を見つめ、考えるべきである。

 

他者と自然と自己。

この大切な三要素をよく、改めて考えたい。

 

「堪える」と言っても、何も歯ぎしりして、悶々と過ごす、

と言うことではない。

 

我々は、原点に戻れる場所、

原点に戻って、純粋な意味での謙虚になれる環境を、持つべきだ。

なぜ、ここにいるのか?

不思議に思われるかも知れない。

何で、そんな初歩的なことをしているのか?

不思議に思われるかも知れない。

それは、

「謙虚になるためです。」

敢えて、言う必要はない。

心に硬く明確に理由を持つことはいいことだ。

 

「堪える」ことは創造に繋がる。