早朝は珍しく霧が出て寒かったですが、お昼にはすっきり晴れました!
今日もいいお天気です
さて、今日日本語を教えている生徒さんと話していて思い出したのですが…
皆さんはサピア=ウォーフの仮説(Sapir–Whorf Hypothesis)をご存知ですか?
私の場合、高校の時の英語リーディングの教科書にこれが載っていました。
二人の言語学者サピアさんとウォーフさんによる、認知と言語の関係についての仮説で、その中でも理論は色々と派生するのですが。
記憶を辿って私なりに簡単に一部まとめると
「言語は各々社会習慣によって形成されてきた、すなわち異なる社会によって同じ事物に対する認識も異なる」
「よってある社会に呼び名が存在する事象は、その呼び名のない異なる社会に置いて事象そのものの存在を認識されていないと考えられる」
「言語は思考を支配する」
というような主張になります。
この説についてはもちろん賛否両論あるようでして、確かに大胆すぎるところもあると思います。
そのものズバリ表す単語を知らないとしても、それについて感じるところがないか、あるいは理解が及ばないかといえば必ずしもそうではないでしょう。
しかし言語学者でもなんでもない高校生の私は、当時これを『言語は(新たな)人格を作る』という風に解釈しました。
新しい言語を使うことによって脳に新たに回路としてシナプスが形成されて云々、のような感じで。
そしてそれはなぜかいつも頭の片隅にあり、ある時それが私の中で真理の一つとなっていったなぁと…
あくまで個人的な経験に基づいてですが、今日はその真理について書いてみようと思います。
私は大学院に進んでから、イギリスはロンドンに一年間留学しました。
日本の英語学習は、文法はイギリス英語寄り時々アメリカ英語のミックス、リスニングは完全にアメリカ英語、ごくたまにオーストラリア英語?のような偏りがあって、それが学習者のスピーキング実践時の戸惑いを助長しているような気がします。
イギリスでは当たり前ですがどこもかしこもブリティッシュアクセントの洪水で…
ここだけの話、特にこだわりなく英語圏の一つとして留学先を選んだ私には、最初はただのひどい訛りにしか聞こえませんでした。
しかしです。
慣れてくると、アクセントによる文章のリズムはまるで台詞のようで口に出すだけで楽しいし、何よりイギリス在住者の単語の選び方ってすごく洒落てて、それが自分の頭の中からも飛び出すようになってくると…気付くのです。
自分は今、自身が選ぶ言葉によって「誰にでもなれる」んだということに。
ロンドンという気風の自由な場所で出会った友人知人は今でもみんな大好きで、そして憧れのアーティスト(オランダ人です)ともお話できる機会までありました。
外国人同士、場所柄共通語はもちろん英語。
上手い下手関係なく、彼らが選ぶ単語と言い回しはどれも自由で、楽しくて、とにかく素敵!!!
私はそこで出会った人たちのようにずっとなりたかった自分を初めて発見して、そして彼らの言葉を真似するうちに…
自分の英語のボキャブラリーが、ここではいい意味で、ポジティブな言葉に制限されていることに気付いたのです。
つまり、結果的に組み立てる理論もポジティブになりがちになる、ということです。
あくまで私個人の経験ですが、ここに、英語を話す喜びが深まったなぁと思います。
そしてこの経験は、間違いなく私の性格を変えました。
そして初めて、「あ、私変わりたかったんだ」とも知ることができたのです。
面白いことに、違う言語で話すと同じ人間同士でも会話の色が変わります。
それは互いの語彙の限界によるところもあるでしょうが、その限界を自分なりに楽しい方向に押し上げていくことで、自分の中に新たな扉が開かれていくというか…
新しい文が口から出るたび、自身の成長の喜びも感じられて密かにアドレナリンの分泌を噛み締める、みたいな
イギリス英語はもちろん洒落ていて今でも個人的に特別ときめきますが
特定の言語に限らず、外国語学習には自分が初心者であるがゆえに自分の中に新しい『人生の単語帳』(ちょっと大げさかしら…)を作っていけるというメリットがあると思います。
私は今、アメリカに来て、これまたイギリスとは全然違うダイレクトな言い回しや地域ごとにキャラクター性の濃いアクセントの違いに戸惑いつつも、また自分の中に新しい単語帳を一冊追加して、そのページがだんだん重みを増していくのを感じています。
自由気ままな遊学生だった20代の頃とはまた違い、必ずしも好ましい語彙ばかりが増える訳ではありません。
それでも、そこで発見した自分も今の自分。
これから先の人生の選択肢を狭めず、己と向き合いながら、日々勉強で精進していきたいですね
長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださった方がいれば…
本当にありがとうございます。