2005年 追っかけ旅行記 その19 上越市滞在 その6 | 海のシャチは元気だよぉ

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末期前立腺癌と宣告されて11年経過、最近は癌を忘れるほど他の病に、耳は人の声が聞こえず、人工内耳を装着することに。

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 親鸞の追っかけドライブ旅行の19回目、上越3日目のことである。前日は上越市教育委員会の学芸員のお話を伺った後、ホテルに戻ったらそのまま寝てしまって、夕日を見ることができなかった。残念で残念で。。。 体調がだんだん悪くなっていく。。

 それでも3日目は、むるウィ承知で動き回っているのだ。数は、加賀街道をと、そして道を間違えたお陰で上杉謙信ゆかりの林泉寺に行くことになってしまった。

 

旅の記録 上越3日目 その1 上越の加賀街道

2005年5月12日 4日目 (上越3日目) 
 北国 (加賀) 街道  を走る
 

前日は、上越市役所からホテルに戻り風呂に入って、風呂上りでベッドで寝転がっている間に5時間も眠ってしまった。前日ほとんど寝ていなかった反動だ。一旦目が覚めたものの、眠気はまだ続き食事もとらないまままた数時間後に7時間も寝ることになった。
 (この日は、夕日を見に行こうと思っていたのに、果たせなかった。悲しい。)

 朝の目覚めは、いいような悪いような。体調の崩れは極限に達している。食事が取れる状態ではないので、腹はすいているが、まだ食べることは無理だ。

 上越に来て2回目の朝。天気予報では今日の昼から天気が危ないという。それに明日は松本に移動するから、今日中に、しかも雨の降る前に行くべきところに行っておこうと、無理を覚悟で動き始める。

 まずは、小説に書きかけている浄興寺から北国街道への道順を確認しなければいけないことに、昨日気がついたのだ。
 書いていることがどうもウソになっている。浄興寺から北に向かって北国街道(ものの本によると加賀街道ともいうらしい)へ出るのは田んぼ道を走ることになる。しかし、別な走り方がある。寺町の北を東西に走る道があるのだ。私は、この道を北国街道と思っていたので、とりあえず寺町の北の道に踏み切りをわたって入り込む。
 寺町には行かず、右に道をとって進んでいく。途中に浄興寺方面と書いた案内板などがあるが、北国街道への案内はない。つまりは、私は寺町の北を走るのが北国街道と思っているからこれで当然ということになる。
 そのまま走って山麓線の交差点もそのまま直進。 ん?交差点を超えてから、どことなく雰囲気がおかしい。どうも山の中に入っていってしまいそうだ。後になって地図で確認すると「愛の風公園」という方向を向いている。
 とりあえず山麓線まで戻る。山麓線を北に上がると、左に新潟教育大学のキャンパスだ。(山麓線からかなり奥にある.) キャンパスの入り口の道路に車を入れて、教育大の建物の写真を遠いが撮る。キャンパスに入っても何もないだろうなぁ。。。なんて正直自分の気持ちに寂しさを覚えるが、この際無視だ。 
 
2005年当時の上越教育大学  山麓線からの遠景

 また山麓線に戻って北上。ここから北国街道までは距離はない。実はこれまで気にしていなかったのだが山麓線と北国街道は斜めに交差しているのだ。私は、北国街道は南北に直進と思っていたが、昨日までの道に迷う原因になっていたのだ。昨日の迷いの反省で今日は確かな道を走ることができるようになった。
 北国街道は、ここからどこをどう折れて海岸に出るのだろう。そこまでは書かれていない。北国街道は、実は高田までということのようで、その先は、加賀街道というのだろうか?加賀百万石前田藩の殿様の参勤交代のための道順のようだ。
 

**江戸の加賀街道の名残の松並木**

 しかし、加賀藩の参勤交代は、妙高を越えたのだろうか?加賀街道としては、中越の長岡から今の関越自動車方向沿いにまわる道もあるようだ。この高田城を通り、妙高を越えて北国街道を行くのは脇街道ということになっている。
 人間1千人馬5百騎という大行列が、妙高高原を超えただろうか。季節にもよるだろうが、妙高高原は夏でも結構涼しいところだ。そんな大行列の宿泊先(本陣)はあったのか?国道18号を走ったときには、本陣跡は気づかなかったが。もっとも、飯山街道はそれよりも厳しいかもしれない。
**ネット検索では、北国街道の野尻湖近辺に「野尻宿」「柏原宿」などの本陣跡があるようだ。**

 気ままな一人旅、道迷っても臨機応変に行き先の変更ができる。こうしたことは、団体やパックツワーなどでは味わえないことだ。

 路えお間違えたお陰で、一度は行こうと思っていた”林泉寺”に行くことになった。このてらは、上杉謙信ゆかりの寺で春日山城取り壊しの際に縄文をこの寺に移設しているし、謙信ゆかりの宝物も収められていると聞いている。

 

旅の記録 上越3日目 その2 謙信ゆかりの林泉寺

2005年5月12日 4日目 (上越3日目) 
  謙信居城・春日山城の遺構のあるという 

 ホテルから自分の思い込みの加賀街道を走ってきて、間違った道を走ったり、道に迷いかけたりしたものの、車は春日山の方に向かった。ここで途中に「林泉寺」と書かれているので、前日行かなかった林泉寺に車を向ける。一人旅とは、こうして、臨機応変に行き先を買えることができる。(単なる負け惜しみ)
 
 まったくほかに車もいず、どこに行くのやらという感じの道を少し進むと、小さな看板に「林泉寺」と書いてある。もうひとつ向こうの道にも書いてあるが手前の道を右折して ん?? この先どうするの?直進と左に分かれる。看板には矢印がないような・・・・さっきの道にもうひとつ向こうにも寺の名があったからと左折を選ぶ。
 これは、珍しい、今回の旅ではここまで全部右を取ってきたのに、これで正解のようで広い広い駐車場がある。たった一台車が止まっている。静かです。本当に静かです。

 車を止めて門のほうに歩く。古い門だ。これが春日山城から移設した城門とのことだ。まあ、寺の山門を見慣れている私は、本当にどうということのない城門だ。謙信ゆかりの地を訪ねるのを目的としているのなら違った印象になるかもしれないが、綿日は単に「いってかねば」問い程度なのだ。
 。この門の右になんと関所=料金所がある。こ関所で500円を支払わないと中には入ることができない。上越に来て3つ目の料金の必要なところだ。もっとも支払うのは2回目。
 これまで料金がいるという場所は、高田城公園の櫓の中に入るとき、浄興寺の宝物殿を見るとき。支払ったのは浄興寺だけだ。今回はこのように関所があるというのは初めてだ。
 女の方が切符売り場でお待ちである。(かなり暇そう)500円をお支払いして、中に入る。

 城門に比べると格段に立派な山門を通り抜けると正面に大きな本堂、かなりきれいで、つい最近建て直したのではないかと思う。本道の左には上杉家代々の墓が並んでいる。ちょっと上っていくのだが、正直興味がないので下から写真を取って終わり。500円払ったからもっとゆっくりしていけばよさそうなものだが。それにしてもここの500円は正直私には高く思える。反対側には宝物殿がある。何があるのかと入ってみる。浄興寺でもそうだったが、ここでも宝物には正直裏切られる。まあ、私には興味のないものが展示されている。
この宝物殿にひとりの男の方がおいでになる。恰幅に言い方で、いろいろと説明をしてくださるのだが、これといって興味を引く話もあまりなく。(興味がないのは、この方の問題ではなく、私の目的が「謙信」ではなく「親鸞」だからなのだ。)

 ただ、織田信長の軍勢がここまで攻めてこなかったのが、歴史的に幸運だった。上越の町、上杉がある程度江戸にまで持ちこたえたのは、信長の攻撃を受けることがなかったからではという話。確かに、親知らず子知らずの難所を大軍勢が超えることは難しかったかもしれない。信玄も川中島で終わりだ。妙高を越えてきてはいない。山や海がこの地を守ったのだろうと。しかし、江戸に入って、上杉家は山形に封印されてしまうということになる。

 そんな話を聞いて、林泉寺を後にする。

 次回は、五智国分寺の奥の院を目指すのですが・・・・・・