
▲高桐院 参道
細川藤孝を弔うお寺
こんにちは。前々回のブログで「本能寺の変431年目の真実」という明智光秀の子孫である明智憲三郎さんの本の感想を書きました。おそらく多くの人が知っている本能寺の変が起きた理由(明智光秀が織田信長への恨みを晴らすために起こした)を覆す内容に「徳川家康と手を結ぶの!?」とワクワクしながら本を読み進めました。個人的にはめっちゃ面白かったです。
さて。
今回は「本能寺の変431年目の真実」に登場する人物と私が好きな京都のお寺と縁があることを知ったので、その内容をブログにしてみます。
私が京都で好きなお寺の中に大徳寺の塔頭である高桐院というお寺があります。竹林に囲まれた静かな佇まいと、参道の苔と竹で作られた手すりが美しいのですが、今まで高桐院の歴史がよくわかりませんでした。高桐院のパンフレットには戦国時代の武将である細川忠興が父親の細川藤孝を弔うために建てた、また細川忠興の妻である細川ガラシャのお墓があると書かれています。
しかし私は学校の授業で登場しない人物のことは知りませんでした。戦国時代と言えば、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ぐらいしか学校の教科書には出てこなかったと記憶しているのですが、歴史教科書に細川家なんて出てきましたっけ?(汗)
高桐院の雰囲気は好きだけど歴史に親近感がわかないなぁと思っていたのですが「本能寺の変431年目の真実」の中で細川藤孝、忠興、ガラシャが何者で、本能寺の変と関わる人物だったことを初めて知ることができました。
ってな訳で前置きが長くなりましたが、今回は細川藤孝についてブログにします。

▲高桐院 入口
明智光秀は細川藤孝次第で死なずに済んだかもしれない。
細川藤孝は戦国時代の武将であり、戦国時代を代表する3人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と戦国時代を渡り歩き、細川藤孝の子孫は現代でも活躍している。1993年に第79代内閣総理大臣に就任した細川護煕は子孫になります。本能寺の変により織田信長は部下の明智光秀に殺害されましたが、本能寺の変の11日後には明智光秀は豊臣秀吉との戦である「山崎の合戦」に敗れて命を落としました。
学校の授業では本能寺の変という単語と登場人物の織田信長、明智光秀、豊臣秀吉を暗記した訳ですが、あっさり過ぎる光秀の死を馬鹿にすると同時に、秀吉の凄さを感じていました。
しかし明智光秀は信長を殺した後のことも絶対に計画していたはずです。信長を頂点とする信長軍には光秀だけでなく秀吉や柴田勝家等の優秀な戦に強い武将達や、信長の跡継ぎである息子達で形成されており、光秀が突然信長を殺害すれば、部下や信長の息子達との戦いが待っているだけでなく、まだ倒していない信長と敵対する武将との戦いも予想していたに決まっています。後先を考えずに突発的に謀反を実行する馬鹿ではないはずです。

▲高桐院 庭
そして光秀は後のことを考えて徳川家康を筆頭に味方を作っていたことが本に書いてあります。
その味方の一人に細川藤孝が含まれていました。その証拠として細川家には現在も、光秀から藤孝宛に味方して軍を派遣して欲しい旨の光秀直筆の手紙が残っています。
しかし歴史の事実として藤孝は光秀に味方しませんでした。光秀の計画と異なり、藤孝は本能寺の変の後に信長を弔うためという理由で自分の城に籠ってしまっていました。そのため山崎の合戦には参戦しなかったのです。光秀にとっては計算していた戦力が急に無くなってしまいました。先ほどの光秀直筆の藤孝宛の手紙には、合戦に参戦せずに城に籠っていることに対して腹を立てていると光秀の心情が書かれています。
そして光秀が敗れた後に秀吉から藤孝宛に秀吉の味方となってくれたことへの感謝の手紙が残っているだけでなく、光秀が治めていた土地が褒美として藤孝に与えられているのです。。。

▲高桐院 茶室
細川藤孝と明智光秀の盟友関係
細川藤孝は13代、15代室町幕府将軍である足利義輝、足利義昭の側近として仕えた地位の高い名門家の武士である一方で明智光秀は細川藤孝の部下の足軽として仕えていたとされています。現代の会社組織で言えば、役員と平社員くらいの差が藤孝と光秀にはありました。しかし光秀は出世を果たして藤孝と同等の地位まで昇進した後、織田信長が愛知県から京都へ上洛後の比叡山延暦寺焼き打ち事件の頃に信長軍へ移籍しました。そして信長の部下になってからも出世を果たし、本能の事変の頃には一番の側近として活躍しています。
藤孝も光秀から遅れて足利義昭の下から信長の下へ移籍しています。信長の下では光秀の方が藤孝よりも上の地位でしたが、二人の関係は盟友と言える程に親密だったとされています。足利義昭時代から一緒に戦ってきた歴史があり、藤孝の息子である細川忠興の妻には、光秀の娘であるガラシャを嫁がせて血縁関係も結んでいます。当時は現代よりも血縁関係が重要視される時代なので、藤孝一族と光秀一族は親戚であり同盟関係。現代のように恋愛から結婚するようなことは少なく、政治的な意味合いが強い時代。
つまり、光秀にとっては藤孝が協力しないこと等予想していなかったのです。

▲高桐院
細川藤孝の決断。
細川藤孝は何故光秀に味方しなかったのか。本能寺の変の後、豊臣秀吉が中国大返しと呼ばれる猛スピードで中国地方から京都へ大軍で戻ってきていることを知り、光秀側の負けを予期していたのかもしれない。
「本能寺の変431年目の真実」では、藤孝の部下である松井康之と秀吉が繋がっており、光秀の計画が秀吉に漏れていたとしています。過去に松井康之が秀吉軍と共に戦い、秀吉の勝利に貢献したことと、山崎の合戦後の褒美として秀吉から直接松井康之へ土地が与えられた点を親しい関係性の証拠としています。
当時の慣習として秀吉から藤孝へ褒美を与えることはあっても、藤孝の部下に対して直接秀吉が褒美を与えるという、部下の部下に褒美を与える行為は異例のため、並々ならぬ理由があったということ示します。
その並々ならぬ理由こそが松井康之が藤孝を秀吉側に引き込んだことと推測しています。藤孝は秀吉に光秀の計画が漏れてしまっていては、成功の見込みはないとあきらめたのかもしれません。

歴史を振り返りますと結果的に細川藤孝が光秀ではなく秀吉に手を貸した決断が、細川家が現代まで途絶えることなく続くことができたと言えます。息子の忠興が家督を継ぎ、関ヶ原の戦いでは徳川家康側に味方して、細川家は現在の福岡県で39万石の大名へと出世。さらに忠興の息子の忠利の時代には熊本県で54万石の大名へと出世しており、藤孝の決断が細川家の方向性を決定付けたと言えます。
藤孝の世の中を見る目と人物像に興味が湧きます。歴史の教科書には載らないけども、優秀な人間がたくさん活躍していたのです。また細川藤孝は別名を細川幽斎と言い、千利休とも交流があり茶道や歌にも精通した文化人でもあるのです。
戦国時代の武将と言えば残忍な人間ばかりの時代だと決めつけていましたが、人格も必要なのかな。(汗)

私が会社員だからかもしれませんが、出世をするには仕事ができるだけでは不可能だと思います。(企業風土にもよると思いますけど)出世見込みのある上司と仲良くなっていたり、力のある派閥に属していたりと、社内の縦と横の関係を見渡して上手く立ち回れる人が出世するのではないでしょうか。細川藤孝のことを知ると何故かそんなことを考えてしまいました。笑
今度大徳寺に行く際は高桐院にも行って細川藤孝のお参りをしようと思います。
