大覚寺勅使門
▲大覚寺 勅使門

こんにちは。
前回のブログで嵐山にある天龍寺について書きました。朝日新書「京都ぎらい」の中で天龍寺のことが紹介されていたことをきっかけに、天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために建てたことを知りました。

おそらく高校で日本史を習った人なら頭の片隅に後醍醐天皇や足利尊氏という単語の記憶があるんじゃないかな。(笑)時代としては鎌倉時代と室町時代の間にある南北朝時代の話。私は大学受験から約10年経ちましたが、大人になってから京都観光が趣味になり、改めて歴史を学ぶことに興味が出てきました。(笑)

大沢池
▲大覚寺 大沢池

さて、
今回は天龍寺から歩いて20分くらいのところにある大覚寺についてブログにしてみました。大覚寺も天龍寺と同じく南北朝時代と縁のあるお寺です。私は大覚寺が好きで何回か行っています。大覚寺が好きな理由は京都のお寺の中で一番美しいと思っているからです。

平安時代に鑑賞するために造られた大沢池と呼ばれる人工池が目の前に広がっていて、静かに大沢池を眺めていると心が落ち着きます。(笑)しかしそんなに好きな大覚寺でも、今まで歴史については特に何にも知りませんでした。汗 

なので今回は前回の天龍寺と同じく南北朝時代の関わりについて知りました。素人なので内容は浅く、大したことないことはお許し下さい。

大覚寺勅使門
▲大覚寺勅使門

大覚寺統と持明院統

大覚寺と聞くと高校の日本史の授業で「大覚寺統と持明院統」という単語を暗記したことを思い出します。しかし大覚寺統の大覚寺が京都にあるお寺のこととは大人になってから知りました。そして大覚寺統と持明院統が南北朝時代の始まりの原因とも言える出来事だと今回改めて知りました。せっかくなので私が理解した大覚寺統と持明院統のことをを纏めました。笑

ある時の天皇が次の天皇を息子兄弟のどちらに継がせようか決める前に死んじゃいました。当時は天皇を決定する権利を鎌倉幕府が持っていたので、幕府は天皇の奥さんに天皇が兄弟どちらに皇位継承させるつもりだったのか聞きました。すると天皇の奥さんは弟に継がせるつもりだったと答えたので、幕府は弟に皇位継承させました。

この結果、弟と弟の子供達が天皇になることが決まったので、お兄ちゃんとお兄ちゃんの子供達は天皇になれずに、弟よりも生活が惨めになることが決まりました。お兄ちゃんはこの決定を認められずに不満を幕府に爆発させました。幕府はお兄ちゃんの言うこともわかると、今後は平等に兄側の子孫と弟側の子孫で交代して天皇を継ぐことになりました。

そしてお兄ちゃん側が天皇の時は持明院というお寺に住んで政治を行ったので持明院統、弟側は大覚寺で政治を行ったので大覚寺統と区別して呼ぶことになりました。持明院統、大覚寺統の統は系統の統の意味で、弟の子供の次はお兄ちゃんの子供、その次は弟側の子孫というように交互に子孫達が天皇になりました。この交代制を日本史の教科書では両統迭立と呼びます。

大覚寺の正式名称は旧嵯峨御所 大覚寺(御所=天皇が住む場所)というように、この時代に弟側が天皇の時には天皇が住んでいたこともあり、大覚寺の佇まいがとても立派で美しい理由はこれです。
大覚寺
▲大覚寺内の襖絵

両統迭立から南北朝時代へ

弟の孫にあたる後醍醐天皇が天皇になった時、後醍醐は両統迭立の仕組みに不満を持っていました。自分の次の天皇に自分の子供を継がせることができず、兄側が天皇の間は生活が苦しくなります。また両統迭立によって朝廷内が兄側と弟側に分裂してしまい、幕府に対して一つに纏まって対抗できないことが余計に朝廷の力が弱いままの状況に繋がっていると問題視していました。権力を幕府から天皇である自分のものへ取り戻そうと、後醍醐天皇は幕府を倒す行動に出て、鎌倉幕府を滅ぼしました。

そしてその後は前回のブログに書いたような南北朝時代に突入します。そういう意味で大覚寺は南北朝時代のきっかけの舞台になった場所と言えるのです。
大覚寺
▲多分 天皇を乗せるやつ 笑

ざっくりしすぎですが、大覚寺の歴史を少し知ることができました。世間の皆様が言う大人の修学旅行と呼べるレベルかはわかりませんが、私レベルにとっては京都旅行は大人の修学旅行気分です。前々回の「京都ぎらい」を読んでから、日本史の南北朝時代を知ることが続いています。これからも少しずつ知っていこうと思います。
大沢池
▲大覚寺 大沢池で泳ぐ鴨 かわいかった。笑