私は極めて合理的な人間と思っている。

この世に神や仏なぞ存在するものか?

幽霊や妖のたぐいなど存在するわけが無いと今でも思う!

坊主も神社も鼻でせせら笑う人間です・

 

しかし

今でも鮮明に思い出す恐怖の体験がある

それは車で北海道一周の一人旅をした時のことです。

 

旅も終盤になり初山別の道の駅から

目的もなく積丹を目指し国道を走っていた私は

苫前町三渓でおどろおどろしくも滑稽な看板を見つけた。

三毛別羆事件復元現地に再現された巨羆の姿。手前のヘルメットと比較すると、その巨大さが推し量れる。

 

”三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)”

 

直ちに国道を左折し現場に向かったのですが( ^ω^)・・・

呆れたことに人は元より車が一台も来ないのです。

往復20kmほどかと思いますが一台もすれちがいませんでした。

 

舗装された道路を走りやがて砂利道に入り

不気味な森の中にそれはありました。

 

長くなりますがここで事件のあらましをウイキペディアの引用で紹介します

行く前はもちろん知りませんでした。

 

三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)とは、1915年大正4年)12月9日から12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢[注釈 1]で発生した、クマの獣害(じゅうがい)としては日本史上最悪の被害を出した事件。六線沢熊害事件(ろくせんさわゆうがいじけん)、苫前羆事件(とままえひぐまじけん)、苫前三毛別事件(とままえさんけべつじけん)とも呼ばれる。

エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事態は終息した。

 

12月9日[編集]

太田家の惨劇[編集]

からにかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷する様々な作業に追われていた。三毛別のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男達の多くは出払っていた。

12月9日の朝、三毛別川上流に居を構える太田家(小説『羆嵐』では島川家)でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(ながまつ ようきち、当時59歳 通称オド)が一足早く仕事に向かい、当主の太田三郎(おおた さぶろう、当時42歳)も氷橋(すがばし)[注釈 3]に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部マユ(あべ まゆ、当時34歳)と太田家に預けられていた少年・蓮見幹雄(はすみ みきお、当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。

同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。ふざけて狸寝入りしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手を掛けてのぞき込んだ。その時、要吉は幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。側頭部には親指大の穴が穿(うが)たれ、すでに幹雄は亡くなっていた。要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、下流の架橋現場に走った。

駆けつけた村の男達は、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。おそらく、トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。足跡が続く居間を調べると、くすぶるがいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪が絡みついていた[2]

要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きの馬鈴薯が転がっていたという。そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。実は事件直後、三毛別の村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかった。このことから、事件は午前10時半頃に起こったと推測された。

事件の報に村は大騒動となった。しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置した頃には午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった[2]。男達は太田家から500m程下流の明景安太郎(みようけ やすたろう、当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、とり急ぎ苫前村役場古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村(現・苫前町力昼)の蓮見家への連絡を取らなければならない。しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤石五郎(さいとう いしごろう、当時42歳)が引き受けることになった。太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)へ外出しなければならない[注釈 4]明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・(いわお、当時6歳)、四男・春義(はるよし、当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。

12月10日[編集]

捜索[編集]

早朝、斉藤石五郎は村を後にした。残る男達は、ヒグマを討伐してマユの遺体を収容すべく、約30人の捜索隊を結成した。昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇した。馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲いかかった。鉄砲を持った5人がなんとか銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのはたった1丁だけだった[3]。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。改めて周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があることに気付いた。その下にあったのは、黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった[3]

このヒグマは人間の肉の味を覚えた。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だった。

太田家への再襲[編集]

当時の開拓村の家(再現)

夜になり、幹雄の両親とその知人の3名が到着。太田家では幹雄とマユの通夜が行われたが、村民はヒグマの襲来におびえ、参列したのは六線沢から3人、三毛別から2人と幹雄の両親とその知人、喪主の太田三郎のあわせて9人だけだった[3]。幹雄の実母・蓮見チセ(はすみ チセ、当時33歳)がの酌に回っていた午後8時半頃、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマが室内に乱入して来た。棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達はに上り[4]、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。混乱の中、ある男はあろうことか自身の妻を押し倒し、踏み台にして自分だけで梁の上に逃れた。以来、夫婦の間では喧嘩が絶えず、夫は妻に一生頭が上がらなかったという。

この騒ぎの中でも、気力を絞って石油缶を打ち鳴らしてヒグマを脅す者に勇気づけられ、銃を持ち込んでいた男が撃ちかけた。さらに300m程離れた中川孫一宅で食事をしていた50人ほどの男達が、物音や叫び声を聞いて駆けつけたが、その頃にはヒグマはすでに姿を消していた。犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かった。

明景家の惨劇[編集]

北海道開拓の村に再現された開拓小屋の内部。太田家や明景家の囲炉裏端を髣髴とさせる。

その頃、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(りきぞう、当時10歳)、次男・勇次郎(ゆうじろう、当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(きんぞう、当時3歳)、四男・梅吉(うめきち、当時1歳)の6人と、斉藤家から避難していたタケ、巌、春義の3人、そして要吉の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた[4]。前日の太田家の騒動を受け、避難した女性や子供らは火を焚きつつおびえながら過ごしていた。護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ再出没の報を受けて出動していたため、男手として残っていたのは要吉だけで、主人の安太郎は所用で鬼鹿村へ出掛けており不在だった。太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。

太田家からヒグマが消えてから20分と経たない[4]午後8時50分頃、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉は無い。その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。

ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついた後、3人を手元に引きずり込み、ヤヨの頭部をかじった。だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。

追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。この時、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気付いたヒグマは彼女にも襲いかかった。居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた[5]

川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。そこへ重傷のヤヨと子供達がたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。途中で、重傷を負いながらも脱出してきた要吉を保護した後、男達は明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。中からは、タケと思われる女性のうめき声と、肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供達の生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破り表で待つ男達の前に現れた。先頭の男が撃とうとしたがまたも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは姿を消した[5]

ガンピ(シラカバの皮)の松明を手に明景家に入った者の眼に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、その時には少し動いていたという[6]。しかし一時間後には死亡した。力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった[6]。急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。日露戦争帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた[注釈 5]。巌は肩や胸にかみつかれた傷を負い、左大腿部から臀部は食われ骨だけになっていた。

六線沢の全15戸の住民は、三毛別にある三毛別分教場(その後、三渓小学校になるが廃校)へ避難することになり[6]、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。巌は母・タケの惨死を知るすべもないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えた。この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。重傷者達は翌日さらに3km下流の家に移り、古丹別の沢谷医院に入院したのは12日になった。

12月11日[編集]

すべての住民が三毛別分教場に避難した六線沢に人影はなく、おびえながら固く戸締りをした三毛別の各農家がヒグマ避けに焚く炎が、昨夜から不気味に寒村を照らしていた。小村の住民だけではもはやなす術なく、三毛別地区区長の大川与三吉(おおかわ よさきち,当時47歳)と、村の長老や有志、駐在所巡査、御料局分担区員、分教場教師らが話し合い、ヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議した。その一方、家族に降りかかった悲劇を知らず雪道を往く斉藤石五郎は、役場と警察に太田家の事件報告を終えて10日は苫前に宿を取り、11日昼近くに帰路についた。下流の三毛別にたどり着き、妻子の受難を知らされ、呆然と雪上に倒れ伏しただ慟哭をあげるしかなかった。

12月12日[編集]

討伐隊の組織[編集]

六線沢ヒグマ襲撃の連絡は北海道庁にもたらされ、北海道庁警察部保安課から羽幌分署長の菅貢(すが みつぐ、階級は警部)に討伐隊の組織が指示された。討伐隊の本部は三毛別にある大川興三吉の家に置かれた[6]。一方、死亡者の検死のため馬橇で一足早く現地に乗り込んだ医師は、正午頃山道でヒグマのを発見した。それを検分し、中から人骨・髪の毛・未消化の人肉を見つけると、立ちすくんだ。

菅警部は副隊長に帝室林野管理局、近隣の青年会消防団、志願の若者やアイヌたちにも協力を仰ぎ、村田銃や刃物類、日本刀を携えた者を含め、多くの人員が三毛別に集まった。副隊長には土地勘がある帝室林野管理局(現在の林野庁)羽幌出張所古丹別分担区主任の技手である喜渡安信と三毛別分教場の教頭であった松田定一を置き、隊長の菅警部は要所を固める一方、討伐隊を差し向けた。しかし、林野に上手く紛れるヒグマの姿を捕らえることはできなかった[6]

待ち伏せ[編集]

夕暮れが迫り、手応えを得られない討伐隊本部は検討を重ねた。ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性がある。これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案されたが、その獲物が意味するものを前に本部内の意見は割れた。菅隊長は目的のためこの案を採用し、罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立った[6]。だが、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。事態はそれだけ切迫していた。こうして、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという前代未聞の作戦が採用された[8]

作戦はただちに実行された。銃の扱いに慣れた7名が選ばれ、交替要員1人を除く6名が、補強した梁の上でヒグマを待った。居間に置かれた胎児を含む6遺体の死臭の中、森から姿を現したヒグマに一同固唾を飲んで好機を待った。しかし、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り、森へ引き返していった[8]。その後太田家に3度目の侵入を企てたが、隊員は立ちすくむのみだった[8]。男たちはそのまま翌日まで待ち伏せたがヒグマは現れず、作戦は失敗に終わった。

12月13日[編集]

この日、旭川陸軍第7師団から歩兵第28連隊が事態収拾のために投入される運びとなり、将兵30名が出動した[注釈 6]。一方、ヒグマは村人不在の家々を荒らし回っていた。飼われていたを食い殺し、味噌や鰊漬けなどの保存食を荒らし、さらに、寝具などをずたずたにしていた。中でも特徴的なのは、女性が使っていたや、温めて湯たんぽ代りに用いる石などに異様なほどの執着を示していた点だった。三毛別川右岸の8軒がこの被害に遭ったが、ヒグマの発見には至らなかった[8]

しかし、その暴れぶりからもヒグマの行動は慎重さを欠き始めていた。味を占めた獲物が見つからず、昼間であるにもかかわらず大胆に人家に踏み込むなど警戒心が薄れていた。そして、行動域がだんだんと下流まで伸び、発見される危険性の高まりを認識できていなかった。菅隊長は氷橋を防衛線とし、ここに撃ち手を配置し警戒に当てた。

そして夜、橋で警備に就いていた一人が、対岸の切り株の影に不審を感じた。六株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかも微かに動いているものがある[8]。報告を受けた菅隊長が、「人か、熊か!」と大声で誰何(すいか)するも返答がない。隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放った。すると怪しい影は動き出し闇に紛れて姿を消した[10]。やはり問題のヒグマだったのだと、仕留めそこないを悔やむ声も上がったが、隊長は手応えを感じ取っていた。

12月14日[編集]

最期[編集]

空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急いで討伐隊を差し向ける決定が下された[10]。一行の他に、10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳 小説『羆嵐』では山岡銀四郎)という熊撃ちがいた。鬼鹿村温根(現在の留萌郡小平町鬼鹿田代)に住む兵吉は、若い頃に裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽と日露戦争の戦利品であるロシア製ライフル[注釈 7]を手に数多くの獲物を仕留めた、天塩国でも評判が高いマタギだった。彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、だれもが悔しがった[11]。孫によれば、(兵吉は)時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという[12]

兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。ヒグマは頂上付近でミズナラの木につかまり体を休めていた。その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在には全く気づいていない。音をたてぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた[10]。銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの屠(ほふ)られた姿だった。

熊風[編集]

ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた大物であった。推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。これほど特徴のある熊を誰も見たことがないという[13]。隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者など様々だった。やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。終わってみると12日からの三日間で投入された討伐隊員はのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった[14]

ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数でそりを引き始めた。すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた[14]。事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わり[2- 1]そりを引く一行を激しく打った。言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ[15]

解剖[編集]

猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半かけてヒグマの死骸は三毛別青年会館に運ばれた。雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、「このヒグマは数日前に雨竜で女性を食害した獣だ」と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。あるマタギは、「旭川でやはり女性を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」と言った。山本兵吉は、「このヒグマが天塩で飯場の女性を食い殺し、三人のマタギに追われていた奴に違いない」と述べた。解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみを新たにした。犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味は良くなかったという。皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた。その後などとともに50円[16]で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈られた。毛皮や頭蓋骨は消息不明である。

 

 

私は事件の経緯も知らず保存された小屋を覗いた。

まことに粗末な小屋で、こんなところで人が生活していたのが不思議に思えた、

手前に囲炉裏跡があり、土間の奥にむしろを敷いた簡単なつくりである。

 

じ~っと中を見つめ、土間に一歩足を踏み入れた時です。

 

奥の方から白い物がもや~っと ?! 

目を凝らしてみたとき

背後でドタンーと物音が・・・・

うっわ~

 

一目散に車に向かったが足がもつれて走れない!

前に体が進まないのです。

恐らく自分の恐怖心のせいでしょう が、あんな体験は初めてです。

3年も経過した今でも思い出すのです。

霊魂などいないと今でも思うのだが、2度と行きたくない場所です。

 

後日知ったのだが私が行った場所は明景家だったのでした。