ゆうぞう人生記 その0-2 「序章其の弍」 | ものまね芸人 ゆうぞうブログ

ゆうぞう人生記 その0-2 「序章其の弍」

前回同様、私はこの頃は生まれていないので

本人や周辺から聞いた話を思い出しながら、

自分の想像で色々と書き綴っていきたいと思います。

先に謝っておきますが、事実と違うところとかあったらごめんなさい。


前回の記事はこちら

『ゆうぞう人生記 その0ー1「序章 其の壱」』ものまね若大将ゆうぞう。代表作である加山雄三さんのものまねをはじめ様々なベテランや大御所のものまねを得意としている。そんなゆうぞうという芸人の一人間としての人…リンクameblo.jp




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前回のあらすじ



戦後間も無い頃に福島で生まれ、東京の下町に移住したサチコ。

手に職をつけるために専門学校に通い、その手先の器用さから大手時計製造会社に勤めることとなる。

実家住まいだったサチコは近所の飲食店で飲んでいるとギターを持った青年と出会ったのであった。



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時は遡り、1949年。



世界的にもまだまだ大戦の影響が残っており、

あちこちで紛争が起こったり、独立が叫ばれていたり、

日本もあちこちで戦後復興に尽力している最中だ。




「ないしちょっとよ!はよせんか!」

「こん魚(うお)はまだ生きっちょっど!」

荒々しい漁師の声が今日も市場に響き渡る。




鹿児島県のほぼ最南端とも言える、とある港町。

外に出れば名産品である鰹節の香りが漂う。

それは、その町に降り立った人間なら

誰でも瞬時に気づくくらい強烈な香りだ。




そんな町で米屋を営む夫婦の間に

5月7日、男の子が誕生した。

名前はヨシノリ(仮名)と名づけられた。


ヨシノリの父は顔の彫りが深く、

初対面の人からは外国人と間違えられることもあったそうだ。

母は、歌や踊りが大好きで、よく笑う、

とても明るい人というイメージだ。


ヨシノリには既に三人の兄が居て、

後に一人の弟と一人の妹を授かり、

六人兄弟となる。

つまり家族構成は八人家族とこれまた多いのだが、

サチコの家庭同様、団塊の世代と呼ばれていた世代であるので、

これくらいの人数の家族構成は

当時としては珍しくなかったのであろう。




ヨシノリの実家は町役場からもほど近く、

役場のチャイムが鳴ると家まで聞こえてくる。

また、港町なので海や魚市場も近くにあった。


ヨシノリは魚釣りが大好きだった。

よく堤防からアジを狙って釣りに行っては

晩のおかずにしていたという。

しかし、釣り糸を垂らすとアジの上の棚にいるサバが

先に餌を食ってしまい、サバばかりがたくさん釣れてしまう。

そのせいか、ヨシノリはサバが嫌いなのである。

ちなみに好物はシビ(マグロ)だったそうだ。




体格も出来上がってきた小学校高学年の頃から

ヨシノリは実家の仕事を手伝うことになる。

学校から帰ってくるとすぐさま、

何十kgというお米を自転車で10km先の隣町まで

毎日のように運んでいたという。

薩摩富士と呼ばれる開聞岳の絶景を背に

ひたすら自転車を漕いでいたという。




そしてヨシノリが中学校に入学した頃、1962年。


1960年代といえば日本の歌謡曲界が華々しく発展を見せた時期とも言えよう。

村田英雄、三波春夫、三橋美智也、春日八郎、美空ひばりと言った錚々たる大御所の演歌歌手に加え

国民的スターの坂本九、御三家と呼ばれた橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、

銀幕のスターである石原裕次郎や小林旭、加山雄三、コミックバンドのクレイジーキャッツ、

三人娘と言われた中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりや山下敬二郎、平尾昌晃らによるロカビリーと呼ばれた洋楽カヴァー作品、

スパイダースやタイガース、ブルーコメッツなどGSと呼ばれたグループサウンズ、フランク永井をはじめとしたムード歌謡など、

多種にわたるジャンルの様々な歌い手が輝かしいヒットソングを売り出していた時代である。(敬称略)




ヨシノリも音楽が好きだった兄の影響で音楽に興味を持ち始め、

部活動はブラスバンド部に入部して、トロンボーンを担当したそうだ。

そして好奇心旺盛なヨシノリは、他の楽器にも興味を示し、

トランペット、クラリネット、ギター、パーカッション、、、etc

色々な楽器と触れ合っていた。


そしてヨシノリにはもう一つ、興味のあるものがあった。

それは電機、機械である。

ある日、ヨシノリは父に呼び出されて進路の話になった時に

「ヨシノリ君は普通科の高校へ行き、学校の先生になりなさい。」と言われたそうだ。

だが結果、父の希望を振り切り、ヨシノリは電機、機械を高校で学ぶことになる。




ヨシノリが高校に入学した1965年は、東京オリンピックが開催された直後である。

その頃にはヨシノリは東京という街に少なからず憧れを持っていた。


高校でもブラスバンド部に入部したヨシノリは、

沢山の楽器と触れ合った経験と、自身のリーダーシップを発揮して

バンドマスター(指揮者のようなもの)になり

また、近隣の学校にも声をかけて、合同コンサートなども開催したという。




そして高校卒業後、ヨシノリは18歳の若さで上京することになる。


これは電機、機械を学ぶ時に父と約束をしたと聞いたことがある。

自分の生きたい道があるなら実家から独立しろ、と言われたと。


小さなアパートを借りて不動産屋でアルバイトをしながらお金を貯めて、

ヨシノリは一本のギターを購入する。


当時はカラオケなどもない時代であったので

歌本を片手に、流しの歌手のように飲食店を回り、

ギターの伴奏をして自分で歌ったり、

他のお客さんに歌ってもらったりして、

アルバイトと流しで生計を立てたりしていた。




楽器もそうだが、実はヨシノリは歌が上手い。

一時はプロの歌手を目指そうと思っていたそうで、

アルバイト先にはとある個性派俳優も居たり、

流し出身の、今でこそ大御所演歌歌手の方とも

お店などでお会いしたこともあったらしい。


しかし、思うところと紆余曲折あって、プロの道は諦めることとなり、

本格的に電機関係の企業に勤めることとなった。




そして70年代になった頃だろうか、ヨシノリは東京のとある下町に流れ着く。


その頃には既に電機関係の企業に定職として就いていたのであるが、

たまにスナックや居酒屋にギターを抱えて何軒か回ったりしていたそうだ。




基本的にヨシノリは生涯、音楽と酒を愛する人間だった。


とにかく酒には目がない。

ビール、ワイン、ブランデー、ウイスキー、日本酒、もちろん地元鹿児島県のいも焼酎など、

お酒が大好きで、何でもござれであった。

仕事のない日などは朝起きてからずっとお酒を飲んでたくらいだ。


だからこの頃は流しで飛び込み営業に回るというよりは、

酒を飲みながら歌を歌ったり楽器を弾いたり出来て、

伴奏したら一杯ご馳走してもらえるくらいの感覚だったのかもしれない。

そしてそれが毎日の楽しみであったのではないか、と今になって思う。




そして数年経ったある日のこと。




その日は飲み足りなかったので最後の一軒、もう一軒だけ近所のお店に入ってみようと

諦めきれずに小さなお店の扉を開けてみたヨシノリ。



「すいません、伴奏いかがですか?」



店内にいる客は一斉に扉の方を見る。

ギターを抱えて立っているヨシノリに気を取られて

会話がピタッと止まる。

この時の緊張感といったら、おそらく慣れてなければ逃げ出したくなってしまうのではないだろうか。


そのお店の客席にはこの日、友達と偶然飲みに来ていたサチコの姿もあった。

当然この時はまだ、お互いに名前すら知らないことは言うまでもない。


この出来事が、ゆうぞうにとって必要不可欠な二人の出会いという歴史的瞬間だったのである。






ゆうぞう人生記 その0ー3へと続く