「ブラックスワン」
家族団欒で見る映画ではない、けど
夜にひとりで見ると怖い。
ちょっとグロテスク。
この先ネタバレ入ります。
葛藤、嫉妬、欲望、憎悪、羨望
人間のぐちゃっとした感情をこれでもかと見せてきて
でも、それは個人の、自分自身のなかの問題であって、
他人がどう、とか自分がどう、とかじゃなく
自分をいちばん邪魔してるのは自分
って作品中にもあるように、
自分自身を超える、というか
自分に自身を持つ、というか
自分は自分、って割り切るというか
結局
「自分は、自分にしか救えない」
ってことだなって感じる映画。
主演の女性の目力に圧倒させられた。
で、ここからはさらに独断と偏見で感想。
白鳥の湖はさいご白鳥の姿でのクライマックス。
白鳥の姿のときに黒鳥の自分(ライバルの女性?)にガラスを刺してる
つまり、白鳥と黒鳥のバトルにおいて
白鳥の勝利…
だけど消滅(死)を迎えたのは白鳥のままの自分。
黒鳥を醜い、狡い部分とすれば
白鳥は純粋な人間の感情
だけど、白鳥は黒鳥を殺す「行為」をしていて。
(語彙力が少なすぎてどう表現したらいいのかわからないけど)
そのときに真の白鳥はいなくなったわけで。
そして、黒鳥がいなくなって白鳥である自分に
実はガラス(鏡の割れた破片)が刺さっている…
つまり、黒鳥と白鳥はふたつでひとつ。
人間は醜い部分があってこそ、純粋な部分がみえる、その逆もいえる。
どっちかを殺すとき、どちらも殺すことになる。
だから自分を殺すっていうことは
どちらかの感情を消すってこと
感情ってひとつじゃなくて
いろーんなぜーんぶのモノの交じり合い(混じり合い)だから
なにかひとつコロスってことはできない(と思う)
それを表現したかったんじゃないかって思ったのが
最後の「感じたわ、パーフェクトよ」ってセリフ。
しーびーれーたー(笑)
完璧って、存在しないってことを言いつつも
完璧という状態は存在してる
↑まさにこうゆう矛盾のようなカンジ
ふたつでひとつなら
どちらかをコロスことになるんだけれども
それを勘違いして自分を白鳥だと思いこんで黒鳥を末梢し
「私が主演よ」
「私の舞台よ」と言った時点で確実に純粋な白鳥というものがいない
(そうやって「私が」という時点で欲望の発生)
つまり、白鳥と黒鳥をどちらも演じることができる(共存)は完璧という状態
(ここでの「完璧」は白鳥と黒鳥を演じることのできること?)
(だけど「完璧」な白鳥と黒鳥ではない)
自分で書いててもまとまりきれてない感が…
言葉で表現ってホント難しい…
ちょっと悔しいのでまた考えることに挑戦したいと思います…