神との対話のひとりごと

神との対話のひとりごと

『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ著、サンマーク出版)

1992年の春、ウォルシュが神に宛てて便せんに怒りを書きなぐると、
手が勝手に動いて文章を書き始め、『神』と名乗り対話を始めました。

『神との対話』に行き当たった方々の参考となれば幸いです。

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「十戒」は、モーセが神から与えられたとされる十の戒律、
つまり守らなけらならない約束、契約と言われています。
十戒は現在でもユダヤ教やキリスト教の根幹であり、
特にユダヤ教では厳しく守られています。

 

この対話のなかで、『神』はモーセに与えた十戒について語っています。
その内容は、言葉上は同じなのですが、意味合いにおいてはずいぶん違っています。
『神』が、人に対して十の約束をしたのだ、と言います。


まず、現在の「十戒」は以下のようなものです。

 

わたしはあなたの主なる神である。


1、わたしのほかに神があってはならない。
2、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3、主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4、あなたの父母を敬え。
5、殺してはならない。
6、姦淫してはならない。
7、盗んではならない。
8、隣人に関して偽証してはならない。
9、隣人の妻を欲してはならない。
10、隣人の財産を欲してはならない。
―――Wikipedia「モーセの十戒」


ところが、ウォルシュに語りかけた『神』は、十戒というものはない、と言います。

 

まず、あなたがきっと驚くこと、

そして、多くのひとの感性を逆なでするような宣言からはじめよう。
十戒などというものはない。


まさか。十戒がないのですか?


そのとおり。ない。
わたしが誰に戒律をまもれと命ずるというのか? わたし自身に?
それに、そんな戒律がどうして必要なのか?
わたしが欲するものはなんでも存在する、そう言ったではないか?
それなら、どうして誰かに戒律をまもれと命ずる必要があるのか?

~中略~

あなたはモーセと同じように真剣な求道者だ。
モーセもいまのあなたのように、わたしの前に立ち、答えを乞うた。
「父なる神よ」と彼は叫んだ。
「わが神なる神よ、どうかわたしに示したまえ。
しるしを与えたまえ、わたしがわが民に語ってやれるように!
われわれが選ばれたのだということを、どうすれば知ることができるのか?」


そこでわたしはモーセの前に聖なる約束をたずさえて現れた。
いま、こうしてあなたの前に現れているように。
永遠の約束――ある確かな言質だ。
「どうすれば、私は確信できるんでしょう?」
モーセは悲しげにたずねた。
「なぜなら、わたしがそう言うからである」とわたしは言った。
「あなたは神の言葉を聞いている」。

神の言葉は戒律でなく、約束だ。
したがって、これは…「言質」である。

 

あなたがたは神への道をたどっていることを知るだろう。
そして、神を見いだしていることを知るだろう。
なぜならつぎのようなしるし、兆し、変化があなた方のなかに起こるからである。
―――『神との対話』P.163-164 サンマーク文庫


『神』は、人が神の道を見いだしたとき、自分の魂を見いだしたとき、
魂に沿って生きることを選択したとき、
その人に十の「変化」が起こるだろう、と言います。
守らなければならない規則ではなく、自分の中から自然に湧き上がってくるだろう、
そのことを『神』は人に約束した、と言います。
この違いが非常に興味深いところだと思います。

 

そして、その『神』が人に与えた十の「言質」を語ります。

 

①あなたがたは心のすべて、精神のすべて、魂のすべてをあげて神を愛する。
わたしをおいて、わたしのほかに神はない。
あなたがたはもはや人間の愛も、成功も、金も、力も、

いかなるシンボルも崇拝しない。
あなたがたは、子供が玩具をわきへ押しやるように、それらを押しのける。
それらに価値がないからではなく、あなたがたが成長して、それらを「卒業」したからだ。


そして、あなたがたは神への道をたどってきたことを知る。なぜなら、


②あなたがたはみだりに神の名を使わない。
また、つまらないことでわたしを呼ばない。
あなたがたは言葉の力、考えの力を理解する。
神にふさわしくない方法で神の名を口にしようとは考えない。
なぜなら、そんなことはできないからである。
わたしの名――「これがわたしである」という偉大な言葉――は、
決してみだりには使われない(したがって、使われれば必ず影響がある)し、
みだりに使われることはありえない。
神を見いだしたとき、あなたがたはこのことを悟る。


あなたがたには、ほかのしるしも与えよう。


③あなたがたは一日をわたしのためにとっておき、この日を聖なる日と呼ぶ。
そうすれば、その日には自分の幻想から醒めて、

自分が何者であるかを思い出すことができるから。
そして、まもなくすべての日を安息日(サバト)と呼ぶようになり、

どの瞬間も聖なるものとなる。


④あなたは母と父を敬愛する。
そして、言うこと、為すこと、考えることのすべてにおいて
父/母なる神を敬愛するとき、自分が神の息子であることを知る。
そして、母/父なる神を敬愛し、
地上の父と母を敬愛すれば(あなたは生命をもらったのだから)、
すべてのひとを敬愛するようになる。


⑤殺生を(理由もなく、意図的に)しないとき、
あなたがたは神を見いだしたことを知る。
どのような場合においても、ほかの生命を奪えない
(すべての生命は永遠である)ことを理解するとともに、
神性で正当な理由がなければ、輪廻の一時期にある生命を壊しはせず、
生命エネルギーの形態も変化させもしない。
あらためて生命を尊敬するようになれば、
植物、動物を含むあらゆるかたちの生命を敬愛し、
最高の目的にかなっているときだけ、生命に影響を及ぼすようになる。


さらに、あなたがたが神への道をたどっていると知ることができるよう、
つぎのようなべつのしるしもあなたがたに送ろう。


⑥あなたがたは不誠実や欺瞞によって愛の純粋さをけがさない。
それは不義だから。
神を見いだしたとき、あなたがたはそのような不義を犯さないと、

わたしは約束する。


⑦あなたがたは自分の所有物ではないものはとらず、
何ものにせよ所有するためにだましたりせず、
見て見ぬふりをせず、他者を傷つけない。
それは盗みだからである。
神を見いだしたとき、あなたがたは盗みをしないことを、わたしは約束する。


さらに、あなたがたは…、
⑧真実でないことを口にせず、したがって偽りの証言をしない。


⑨隣人の配偶者を欲しない。
他者はすべて自分の配偶者であることを知っているとき、
なぜ隣人の配偶者を欲しなければならないのか。


⑩隣人の財物を欲しない。
すべての財物は自分のものとなりえること、
あなたのすべての財物は世界のものであることを知っているとき、
なぜ隣人の財物を欲しなければならないのか?


これらのしるしが生じたとき、

あなたがたは神への道を見いだしたことを知るだろう。
まじめに一生懸命に神を求めるものなら、ここで否定されていることをしないと、
わたしが約束するからだ。
そうしたふるまいを続けることは不可能になるはずである。


これは制約ではなく、あなたがたの「自由」だ。
これは、わたしの戒律ではなく、わたしの「言質」である。
神は、神が創り出したものに対して命令をすることはない。
神は神の子に語りかけるだけだ。
それによって、あなたがたはわが家へ帰ろうとしていることを知るだろう。
―――『神との対話』P.164-168 サンマーク文庫


言葉だけをとると、先にあげた「十戒」と同じようなことを言っています。
しかし、守らなければならない規則ではなく、
そのような変化がおこるだろう、という「約束」である、と『神』は語ります。


モーセに与えたものがそうであったとしても、
この兆しが起きれば神に近づくはず、という思いから
自然と守らなければならない「戒律」に変化していったのかもしれません。

現在の地球上の宗教は本末転倒なことをしていると、

『神』はしばしばこの対話のなかで語っていますが、

この認識の違いは現在のわたしたちの進歩の度合いを現しているようにも思えます。